今、教育現場では、民間企業で言う「実力主義」だとか「成果主義」といった考えが持ち込まれているようである。そして、構造改革の名の下に、「教育」そのものが、変質してきているのではないかと感じる。
某県下の県立高校のホームページを見ると、「学校経営計画」と言うものが公開されている。(「教育計画」は見当たらない。)どの高校の「学校経営計画」を見ても様式は同じなので、多分、県の教育委員会から提出を求められているのだろう。
どの高校の「学校経営計画」も、似たような内容である。また、前年度の実績には評価点が付けられている。もっともらしい点数が付いてはいるが、誰がどういった基準で評価しているのか良く分らない。
結局のところ、最大の評価数値は、生徒がどの大学に何名進学したかにあるように映る。分りやすいと言えば分りやすい数値目標である。学校もこういった数値で、管理され、評価されているとすれば、寂しい限りである。先生方もやるせなさを感じているのではないだろうか。
そもそも学校の教育方針を「経営計画」と呼ぶのが面白い。常に評価者の目を気にせざるを得ない現場の先生方の姿が目に浮かぶようである。
いみじくも少し前に、福岡の中学校でいじめ事件があり、新聞やテレビで連日報道されていた。この中学校の校長先生の発言や、緊急全校集会での生徒達への説明の報道を見ていても、こども達へのすまないという思や、教育への情熱が伝わってこない。
上からのプレッシャからなのか、組織の保身的発言に終始する校長。 それを報道するニュース・キャスタが、怒りで、涙しながらニュース原稿を読んでいた。ニュース・キャスタのその時の気持ちが、一般的国民の気持ちではないだろうか。
先の某県のように、学校の教育計画を「経営計画」と呼ぶ発想には違和感を感じる。今、教育現場では何が起きているのだろうか、不安が募る。
そして、今話題になっている高校の「履修単位不足問題」も同根のように思う。報道によれば、全国どの高校でも、かなり前から多かれ少なかれやっているようである。
このことを、文部科学省が知らなかったと言うのだろうか。もし、知らなかったと言うのであれば、いかにも間が抜けた話だ。
文部科学省は、責任を高校の現場担当者に被せるだけではなく、どの段階で下からの情報が遮断されたのか、何がそうさせたのかを、真摯に検証しておくべきであろう。
(なお、学校の教育計画を「経営計画」と呼ぶのは、某県だけなのか、文部科学省の指示で全国的に作っているものなのかは調べていないので定かではない。)
「飲んだら乗るなくん」と言うのを作った。 最近、飲酒運転の検挙を免れるため、逃走して呼気中のアルコール濃度を低下させたり、検挙直前に飲酒して飲酒運転の事実を隠微しようとする人がいる。
このような検挙逃れを阻止するため、警察は、呼気中アルコール濃度を算定する方法を採用してきている。
「飲んだら乗るなくん」は、測定者の飲酒量、体重、体重、経過時間などから、体内血中アルコール濃度、吸気アルコール濃度をアルコール濃度算定方式(ウィドマーク算定法)で算出し、飲酒運転に該当するかどうかを判定する。
これを使えば、お酒が強いからとか、飲んだのはほんのちょっとだからとか、充分に休んだなどは、甘えであることが直に分る。飲酒運転事故防止のためにも「飲んだら乗るな」を徹底して欲しい。
最後にご注意を。くれぐれも利用方法を間違わないで欲しい。あくまで、「飲んだら乗るなくん」は、飲酒運転しないための啓蒙用道具として利用して欲しい。
「飲んだら乗るなくん」
http://www.ofours.com/books/64/
【10月30日、追記】
10月3日の朝日新聞で「計算式用いて酒気帯び運転を証明 大阪地検、男を起訴」と報道されている。
飲酒後に大阪市生野区でトラックを運転して追突事故を起こし、そのまま逃げたなどとして、大阪地検交通部は会社員の男(34)=同区=を業務上過失傷害と道路交通法違反(酒気帯び運転など)の罪で起訴した。男は事件の約11時間後に出頭したが、交通部は当時の体内アルコール量を調べるため、これまで補完的な捜査方法とされていた「ウィドマーク法」と呼ばれる計算式を活用するなどし、男が酒気帯び状態だったことを突き止めた。
飲酒ひき逃げ事件をめぐっては、酔いが覚めた後に出頭して酒酔いや酒気帯びの罪を免れる「逃げ得」が問題となっている。交通部幹部は「この計算式を根拠に起訴するのは珍しいが、逃げ得を許さないための措置だ」としている。
この記事にある「ウィドマーク法」というのが、「
飲んだら乗るなくん」の計算式である。「
飲んだら乗るなくん」でも、計算結果から、法律上有罪となるか、免許停止となるかを、参考として表示している。
私がまだ、娘と呼ばれていた頃、‘いけばな’は女性の嗜みの一つとして一般に認められていた。お稽古の花を抱えた若い女性をよく見かけたものだった。いつの頃からだろう、最近はそんな女性をほとんど見かけなくなってしまった。
そもそも、‘いけばな’が女性の嗜みの一つとして、花嫁修業の代表格だったのは何故だろう。花が上手く生けられたところで、結婚生活と何の関係があるのだろう。昔から、そんな疑問を持っていた。
‘いけばな’を習うことで、花を生けようとする心の豊かさを育てるということだろうか。単に、花を生ける技術を持つことが女性の値打ちだったのだろうか。
話を戻そう。‘いけばな’という日本の伝統的な花のアレンジの文化が廃れていっている。若い世代は西洋から入ってきたフラワーアレンジメントに目を奪われ、‘いけばな’を、過去のものとなってしまった伝統文化ぐらいにしか認識していない。おばさんのお稽古事とか、‘いけばな’という花のアレンジテクニックをそんな尺度で評価されるのは悲しい。
確かに、西洋のフラワーアレンジメントは華麗で、現実を忘れさせてくれる美しさがある。しかし、花一輪、一枝、一葉に込める思いを表現する‘いけばな’は西洋のフラワーアレンジメントとは別の美の世界を表現できるアレンジテクニックで、西洋のフラワーアレンジメントに勝るとも劣りはしないと思う。
独断と偏見を覚悟で、手前味噌になってしまうかも知れないけれど、折りにふれ、‘いけばな’の世界を紹介していきたい。
今回の出張は、高速バスを使った。そもそも出張に高速バスを使うなどというのは、今まで選択肢の中には無かった。ところが前回の同期会の富山での反省会で、たまたま高速バスを使ってみたところ、悪くないなぁ?と思ったのが切欠だった。
なんといっても料金が安い。特急電車を使うことを考えると、列車に比べて半額で済む。
今まで、バスは遅いという先入観があった。しかし、家から最寄のJRの駅に出て、そこから特急の止まる駅に出るなど、乗換えの時間や、バス停の場所と目的地の場所と、移動時間などを考えてみる。
また、目的地に着く時刻によっては中途半端な時間に着いて、目的地で時間潰しが必要といったこともある。
確かにポイント間の移動時間は列車には勝てないが、ドア・ツー・ドアの実質的な時間をよくよく考えてみると、どっちとも言えなくなってくる。
次に、快適さ、身体への負担だが、今回利用した高速バスは、一座席づつ分離されたリクライニングシートで、足元もゆったりとしていた。また、車内のテレビ画面に映画が映し出されており、音声はステレオ型イアホンで聴くことができた。車内にトイレは付いていたが、丁度よい間隔で、15分程度のPAでの休憩があった。総じて、列車よりも快適ではないかとさえ感じた。
しかし、一番の問題は、事故や工事や天候などでの道路事情で、列車のように定刻通り正確に運行できないところだろう。今回も行きはほぼ定刻通りというより少し早く着いた。しかし、帰りは20分程遅れた。今回は、想定内の遅れであったが、ギリギリな時間で動く必要がある場合は、少し問題と思う。
何事もチャレンジしてみるものである。一度使うと癖になりそうである。多分、今度も高速バスを使うのではないだろうか。
菊の花を生けた。毎年、この季節になると、必ず生ける決まった様式の生け花である。菊の花と言うと、どうしても仏壇やお墓をイメージしてしまい、菊の花が好きだと言う人は少ない。花が大好きな私も、普段は好んで菊の花を買おうとは思わない。もっと、可憐で美しい花はいくらでもあるし、最近のおしゃれな花屋さんでは、むしろ菊を置いていないお店もある。
しかし、相応の空間と花器、そして生ける人の技量があれば、菊という花の存在感は卓越していると思う。大輪の菊は美しいというだけでなく、荘厳で気高く気品のある空間を創り出す。大輪の菊にはその気高さに見合った空間が必要なのだ。その気高さにそぐわない空間に無造作に入れられた菊は、なんとも野暮な花と成り下がってしまう。
バラや蘭といった華麗な花は、ガラスコップに一輪挿すだけで美しいけれど、菊はガラスコップには似合わない。輪島塗の花生けや九谷焼の花瓶、清水焼の大水盤といった格調のある入れ物が似合うのだ。
相応の空間、相応の入れ物、相応の技術の三拍子が揃って初めて、菊の美しさを最大限に引き出すことが出来る思う。なんとも、菊という花は世話のやける花ということかもしれない。
思うに、私たちが生活している空間に、菊が似合う空間が少なくなっている。私の生けた菊も置き場所は事務所のカウンターの上。多分、似合う場所はもっと別のところにある気がする。
少し悩んだが、スカイプの電話番号を取った。スカイプではSkypeInと呼んでいる。
固定電話や携帯電話からこの番号に電話すると「インターネット経由でお繋ぎします」と言うメッセージが流れて、今まで通り呼び出し音が流れる。
(1) パソコン利用中はパソコンで取り、
(2) 外出中やパソコンの近くに居ないときは、携帯電話に転送する。転送料金は、受信者負担となる。
実験してみたが、携帯電話への転送時は、呼び出しが多少長いと感じる。しかし、転送しているという事は分らない。なお、呼び出し時間は設定で変更できるのかも知れないが、まだ調べていない。
また、留守番メッセージ(ボイスメール?)も入れることができるようだ。これもまだ試していない。
○ スカイプへの発信者のメリット
相手がパソコンで取ろうと、携帯電話で取ろうと、日本全国何処に居ようと、発信に利用する電話機(回線)で違うが、割安料金で一律。
○ スカイプ受信者のメリット
スカイプと携帯が同時に鳴るといったことを避けることができる。スカイプ番号を維持すれば、携帯電話の番号を換えても影響が少ない。
なお、携帯で受信した場合、受信履歴に残る番号がスカイブ番号となって、実際の発信者の番号が分らない(後で、パソコンで確認することは可能)。これがデメリットのように思う。
今までは、電話の通話料金は発信者が負担するのが常識だった。しかし、これからは、受信者の都合で受信方法を変えるのだから、通話料金は受信者が負担するというのが常識になるかも知れない。
気がついたら、私の周りには4台も電話機がある。昔からの固定電話に始まって、IP電話、携帯電話、そして最近友人に誘われて買ってきたスカイブ用の電話機である。2台が同時に鳴るだけで、てんやわんやになるのに、4台が一度に鳴ったらどうなってしまうだろう。想像すると滑稽である。
受信専用、発信専用、FAX専用、外出用電話といった具合に使い分けていくのが良さそうだ。
しかし、机の上に並ぶ電話機を眺めていると、4台は多いとつくづくと思う。電話機が一台で、電話回線(電話番号)をいろいろ選べる電話機が欲しい。どこかのメーカで作ってくれないだろうか。
・・・と、「今日のスナップ」で書いたら、ブログツールがスカイプに関連する記事を拾ってきて、リンクを張ってくれた。すでにパイオニアが少し高いけど、そんなコードレス電話機を出していた。
ところで、スカイプは世界中で多くの人が使っている。今現在、四百五十万人がオンラインになってる。
(1) パソコンを使っての電話だが、世界のどことでも通話料は無料。
(2) 携帯電話も含め、他の電話への送受信も格安でできる。
(3) 複数人(5人まで)同時に会話できるので、電話会議が簡単に、そして無料でできる。
これを使ってちょっとした打合せもできそうである。
スカイブに掛かった電話は、パソコンを使っている時はパソコンで、使っていない時は、私の携帯電話に転送するようにした。
携帯電話への転送料金は受信者持ちだから、パソコンから私に電話する時は、常に無料ということになる。
「スカイプ(Skype)」
http://www.skype.com/intl/ja/helloagain.html
「パイオニアの電話機」
http://www.pioneer-pcc.jp/product/fs55m/skype.html
今年は日照不足なんだろうか?
今、向日葵がこの時とばかりに咲いていまぁ?す。
私は東京在住ですが、ご近所でも咲き誇っています。
10月も下旬で、向日葵と菊が並んで咲いています。
皆さんの周辺ではどうですかぁ??
秋本番、職場の向かいのビルに小学校・幼稚園が入っていて、連日練習の太鼓や歓声が響いています。
運動場は屋上にあって、コンクリートの上でも子供たちは一生懸命です・・・
屋上の半分は庭になっていて(さも六本木ヒルズのよう?)大きな木もありススキも風に靡いているし、そういえば向日葵も咲いています??^。^
“ホトトギス”も満開です。時期はずれですよねぇ?(携帯から撮ったので、ぼやけています)_kokko
産経新聞の社会面に『「なれ合い型」学級崩壊が急増 都市部で顕著』という記事があった。我々の高校時代のことを振り返りながら、この記事を読んだ。 みなさんはどう感じるだろうか。
この記事の中で、崩壊の過程を次のように言っている。
年度当初、保護者は「自分の子供は受けいれられている」と感じ、教師との信頼関係が築かれる。だが、内実は先生と個々の子供の関係ばかりが大切にされ、集団としてのまとまりに欠けている。教師は友達口調で子供に接し、子供に善悪を理解させず、曖昧(あいまい)な態度を取ることが多い。
学級のルールが守れなくても「今日は仕方がない」などと特例を設けたり、私語を許すなどルール作りがおろそかになり、子供側には「ルールは先生の気分次第」という空気が生まれる。やがて教室内には、教師の気を引く言動が無秩序に生まれ、「あの子がほめられて面白くない」「先生は私と仲良くしてくれない」などの不満が噴出。告げ口が横行し、学級の統制が取れなくなる。
先生のお客様は生徒だと言ってみたり、先生方の行動を逐一管理(監視)しないといけないとする風潮が教育現場にあるようにも聞く。
先生方が、自分の生き様をさらけ出して生徒に接すれば、生徒達は先生の後姿を見て育つだろう。我々も、良きにつけ、悪るきにつけ、先生方の後姿を見て育ってきたではないか。先生達は自分の生き様に自信を取り戻して欲しい。
また、学校の管理者と言われる人達にもお願いしたいのだが、先生達を管理(監視)するのが管理者の役割と勘違いするのではなく、それぞれの先生達が、自信を持って生徒に接することができる職場環境を作るのことこそが管理者の大切な役目だと思って欲しいものである。
しかし、どうしても先生という職業に自信を持てない者はでてくるだろう。そんな先生方には、別の道に進めるようにして置いて欲しい。これがないと、何時までも先生という職業にしがみ付いていなくてはならなく、先生に取っても生徒に取っても不幸なことになる。
その先生に適した次の職場を提供したり、紹介するのも、役所や管理者の役目ではないのだろうか。
有限責任組合の特徴は、大きくは次の3点と言える。 我々も大いに利用できる制度ではないだろうか。
○ 有限責任制
言葉の通り、責任が有限ということであり、出資者の責任は出資額の範囲内ということである。
例えば、ある事業で失敗して、大きな損失を被った場合、その損失に対する組合員の負担は、組合員の出資額以内ということである。出資額を超えた部分に関して、出資者として負担する必要はない。
組合が、事業に失敗しても、組合員は、出資額以上に借金を背負うことはなく、次のチャレンジができるのが眼目と言える。
○ 内部自治の原則
従来の株式会社などは、会社法で、取締役や監査役などを置くことが強制されている。一方、出資者は、出資額に応じて会社の意思決定に参画できる。その会社の株を多く持っていれば、それだけ経営に対する影響力を行使できる。
しかし、内部自治の原則によれば、出資者の話し合いで、法律に縛られることなく自由に組織を運営できる。
例えば、1千万円の資金をA,B,Cの3人が出資していたとして、Aが5百万円、Bが2百万円,Cが3百万円出資していたとする。 組合員同士の評価で、Bが事業への貢献度が一番高いとして、出資金とは関係なく、Bへの利益配分を五割にするといったことも可能になる。
すなわち、法律に縛られることなく、組合員の話し合いで、利益配分の方法も含め、組合の運営を決めることができる。
○ パススルー税制
構成員課税とも言われる大変興味深い税制である。例えば、組合が事業で獲得した利益に対して税金を払う。その上で、出資者に配分した利益に対しても、出資者は税金を払う。すなわち、事業での利益に対して、2度税金を払っていることになる。
しかし、パススルー税制では、組織として税金を払う必要がなく、出資者の段階だけで払えばよい。すなわち、税金は一回払えばよいということである。
以上三つの特徴を一言で言うならば、「会社法をザル法にする法律」と言っても良い。事業に失敗したときでも、トコトン痛めつけられて再起不能といった状況に陥ることなく、次のチャレンジが可能になる制度である。
また、老後の生活資金と、第二の人生へのチャレンジ資金とを分けて、新しい事業にチヤレンジするときにも利用できそうである。
しかしながら、いずれにしても、具体的に行動する時は、ファンド法といった他の法律からの制約もあるので、弁護士、司法書士、税理士といった専門家に相談してみるのが良さそうである。
なお、「会社法」については、法務省民事局の『「会社法」の概要』が参考になる。また、ファンド法については、経済産業省の「投資事業有限責任組合契約に関する法律(LPS法)について」や、金融庁の「いわゆるファンドについて?ファンド投資に関する注意?」を参考にして欲しい。
また、弁護士五右衛門さんの「新会社法の全体像?大阪城炎上?」でも、新会社法を解説した連載の中で、分りやすく触れられているので紹介しておく。