今日の金沢は本当に寒かった。街を歩くと手がかじかんでしまう。道も凍っており油断していると足を取られて転びそうになる。こんな日はおでんが恋しくなるものだ。
金沢香林坊によく行くおでんやがある。「おでんよし坊」だ。会社の帰りによく寄った。今でも時たま顔を出す。
よし坊は北国新聞本社ビルの脇道にある。だいぶ以前、大通りにある信号前にティファニーがあった。雨の日で傘がない時など、信号待で玄関先で雨宿りさせてもらったこともある。店員さんも親切で邪魔だなんて言わなかった。傘をさしてくれたこともある。
よし坊のおでんと言えば「カニ面」だ。ズワイの雌ガニを金沢では「香箱カニ」と呼ぶ。この香箱の身を甲羅に詰めたおでんが「カニ面」だ。
いまは亡くなったマスターがよく言っていた。おでんの具には味を出す具と吸う具がある。ダイコンなどは旨味を吸う具。カニ面は旨味を出す具。カニ面は注文があったときにおでんの出汁にいれて温める。香箱の身が内子、外子と相まって絶妙の味わいを醸し出す。
マスターが亡くなって何年になるだろうか。東京からの友人と一杯やるのによし坊に予約の電話をした。電話口に出たのはマスターだった。でも何時ものように即答はなく奥さんと相談している風だった。後から分かったのだがマスターは脳腫瘍でぐあいが悪かったようだ。
予約当日、奥さんからマスターが亡くなったので予約はキャンセルさせて欲しいと電話が入った。以来何年か店は閉まったままだった。
香林坊を散歩しているとき、店の前の花に水をやっている奥さんを見掛けたことがある。大変に仲の良い夫婦だったから奥さんのショックも大きいだろう。そんな気持ちをおもんばかると、どう声を掛けていいものやら言葉が出て来なかった。お店の再開を楽しみにしてると言うのが精一杯だったが、マスターとのことが走馬灯のように思い出され、なかなか店を再開しようという気になれないというようなことをボソリと話していた。
マスターが亡くなって何年かして、「よし坊」を再開するという案内状が届いた。三男が一緒にやってくれることになったとのことだった。店の中を駆けまわっていた小学生だった頃の三男坊を思い出す。
そんなわけで、店では時たま「息子よ・・・」なんで呼んだりもする。迷惑に思っているかも知れないが。
金森
金沢のB級グルメに第7ギョーザの店のホワイト餃子がある。
第7ギョーザの店は金沢の山側環状の杜の里ジャスコ近くにある。以前は兼六園から卯辰用水沿いに小立野に向う金沢大学附属病院の近くにあった。
仕事で横浜から来た人などをわざわざタクシーで食べに連れて行ったこともある。横浜中華街をよく知る人が「究極の餃子だ」などと褒めていたのを今でも覚えている。20年程前の話ではある。
ホワイト餃子はホワイトさんが発案した餃子なのでホワイト餃子と呼んでいるようだ。拳を二回りほど小さくした肉まんのような餃子を水を差した油に浸して揚げるというか焼く餃子だ。第7ギョーザの店では餃子しか注文されないのでラーメンなどは止め、メニューには餃子しかない。そしてこれが安くて美味いものだから評判になり、金沢の隠れた名物になっている。
しかし世の中の流れとともに、ホワイト餃子も段々と残念なことになってきた。
ショックを受けたのは、餃子をガスコンロではなくIH調理器で焼くようになったことだ。以来餃子の皮に余分な油が残ってしまって味に切れがなくなった。
こんな焼き方と前後して小麦粉の価格高騰から餃子の皮が薄くなってきた。以前は餃子だけでお腹が一杯になったのだがなんとなく物足りなく感じるようになってきた。最近では具も少なくなってきたように感じる。
そして究極の変化が訪れた。出てきたホワイト餃子があまりにも油こいので、また作り方を変えたのかと従業員にたずねた。実は200個程の餃子を一度で焼く機械で焼くようになったとのことだった。今食べた餃子はその機械で焼いたものだろうとのことだった。
一方、第7ギョーザの店では焼く前の冷凍したホワイト餃子を売っている。焼き方のレシピも入っている。
餃子焼きマシーンで焼いたホワイト餃子を食べてからは第7ギョーザの店でホワイト餃子を食べたことはない。もっぱら家のガスコンロで焼いている。
次の写真の上は、家のガスコンロで焼いたホワイト餃子。下の写真は餃子焼きマシーンで焼かれたホワイト餃子
金森
南砺ゆめぐりのついでに城端を散歩するこがある。散歩していると家々の脇に小川が流れ水車が回っているのを目にする。そんな光景を見ながら常々思っていることがある。
この水の流れで小水力発電すればよい。役場や公民館、体育館などの公共施設はもちろんのこと、個々の家に必要な電力は簡単にまかなえるだろう。電気を遠くから運んでくる必要はない。
小水力発電は設備利用率は70%と言われており他の発電方法に比べて設備効率は群を抜いている。また発電施設のネットワークを作りIT技術スマートシステムで管理すれば安定供給の問題も解決できるだろう。ひょっとすると地域で消化しきれない電力を作り出すことができるかも知れない。
黒部には工場が多く有る。黒部も水の町と言われているが従来の水力発電での電力を安価に使えることで工場を誘致したと聞いたことがある。
城端地区も小水力発電とスマートシステムで地域全体を発電所にすれば格安の電力を作り出せるだろう。電気代が格安ということで多くの企業が進出してくる可能性も大きい。
大量生産、大量消費は、物やサービスを人口の多い地域に運んで売るという考え方。地産池消は、魅力ある物やサービスで多くの人を集める、来てもらうという考え方だ。ブレークスルー、発想の転換だ。
小水力発電をスマートシステムで組み合わせて地域起こしをする技術の方が、原発の技術よりはるかに最先端の技術と言える。
ただ小川の利用には水利権という厄介なものがある。しかし地域の人々がその気になれば解決する知恵はいくらでも出てくるだろう。
土地々々には、自然の恵みで発電する方法は沢山ある。それを実現する技術こそが先端技術だ。原発というロートル技術にしがみつく必要はさらさらない。
金森
技術は人々の暮しを豊かにし命を守るための道具だと思っている。先達からの知恵や技術は積み重ねられていく。そもそもが技術が進んでいるとか遅れているというのは無意味な議論だと思っている。だが安倍首相などは原発は最先端の技術だとし、原発を開発途上国に輸出することで日本国が豊かになると主張する。
しかし私の目からすれば原発は積み重ねることができない古びた過去の技術にしか見えない。その証拠に世界の先進国で原発開発に関わってきた企業は既に原発に見切りをつけている。原発事業を日立、東芝、三菱といった日本企業に売り払っている。ロートル技術を売れる内に売っているわけだ。日立、東芝、三菱は世界の後始末を押し付けられていると言っても過言ではないだろう。こんな技術で日本が豊かになれるはずがない。
そもそも人々の暮しを豊かにし命を守ることからすれば、原発は開発や維持管理に莫大なお金を必要とする。莫大な無駄を生む技術と言える。
原発による発電の仕組みは水を沸かして発生させた蒸気でタービンを回し発電するという単純なものだ。水を沸かすためにウランなどを核分裂させてその時に発生する熱を使う。莫大なお金を掛けて水を沸かす技術が最先端の技術と言えるわけがない。
石油ストーブで水を沸かす時、沸かす必要がなくなったらダイヤルを回せば簡単に火は消える。ところが原発では一旦核分裂が始まるとそう簡単にお湯を沸かすのを止めることができない。発電し続けるしかないわけだ。
だから発電した電気を蓄えるためにダムまで作る。揚水発電だ。原発で発電して余った電気でモーターを回して水を汲み上げ揚水ダムに水を蓄える。電気が多く必要になったときにダムに蓄えた水を使って水力で発電するというものだ。原発がなければ必要ないダム、馬鹿でかい蓄電池に土木工事など多額のお金を掛ける。
また家庭であまり電気を必要としない夜間でも原発は発電し続けなくてはならない。夜間電気を消費するため、各家庭にオール電化を奨める。見方を変えればオール電化とは各家庭を蓄電池にしようという発想から出た施策とも言える。
オマケに原子炉を冷やしてできた温水を海に垂れ流す。発電で作った熱エネルギーの殆どを捨てていると言っても過言ではない。
こんな技術のどこが最先端技術なのか、ロートル技術でしかない。
政・産・学・労、マスコミまでもが原発という既得権でがんじがらめになっている。既得権を守るため時代遅れのロートル技術にしがみついている。
いまこそ即原発ゼロを宣言し、自然の恵みをエネルギーに変える地産池消の技術で、若い世代のために時代を切り開こう。原発という既得権の塊のようなロートル技術に夢はないし、命と暮しを託すわけにはいかない。
金森
犀川の外側、にし茶屋街から犀川大橋を渡る。最初の信号を右に折れると直ぐに鰯組がある。ここの「はるちゃん」とは知り合って随分と長い。
にし茶屋街から犀川から逆方向に少し行ったところ、忍者寺妙立寺の裏辺りに「香林」という寿司屋があった。片町から少し歩かないといけないが、安くて美味しいことから東京や横浜からの人もよく連れて行った。20年以上前の話である。
はるちゃんはこの香林のカウンターの中で料理を出したりわたしたちの相手をしてくれていた。その中でも太巻きは季節の魚が惜しみなく入って、コースターを二周り位太くした圧巻の太さで美味しさも抜群だった。
はるちゃんはまだ寿司は握らせてもらえないけど、きゅうり巻きは作らせてもらえるようになっていた。わたしは「はるちゃん巻」と呼んでいた。
ところがある日、横浜から人が来るということで、いつものように予約しようと店に電話した。しかし誰も出なかった。後日も電話したのだが出ない。店の前に行ってみたところ「臨時休業」との張り紙があった。かなりしてから、風の便りで親方が交通事故で急に亡くなり店を閉めたと知った。
十年ほど前だったろうか。たまたま鰯組に入ったとき、カウンターの中にはちゃんがいた。彼女もわたしのことを覚えていてくれた。以来今でも金沢の友人たちと時たま鰯を食べに行く。
香林の頃、はるちゅんはシングルマザーで幼い子と二人で暮らしていると話していたのを覚えている。娘さんも随分と大きくなったことだろう。はるちゃんは鰯組のカウンターにいる親方と息が合ってていい感じだ。でも一緒になったのかどうかは知らない。聞かないことにしている。
下の動画は鰯組で撮った写真のバックに親方が歌う「ありがと酒場」を流した。
金森
金沢の街を歩いていると四季折々季節の花を目にする。花壇が多いというわけではない。家々の軒先や玄関先、塀などにさりげなく季節の花が生けてある。
ひがし茶屋街の中程に藤としというお茶屋がある。玄関先に季節の花が投げ入れで生けてある。この花越しに茶屋街を見るのがひがし茶屋街を散歩するときの楽しみの一つでもある。またひがし茶屋街の入り口、ひがしの広見にある蛍屋の玄関先の花も楽しみだ。
お茶屋の藤としには松の木が貫いている。その松の木は床柱になっているそうだ。一見さんはお断りのお茶屋だが紹介してくれるという人もいて一度は行きたいとは思っている。機会があったらごの会で行ってもいいかも知れない。もちろん割り勘だけど
下の写真の上が藤としの投げ入れ、下が蛍屋の玄関先のろう梅。
金森