金沢の文豪に室生犀星がいる。ウィキペディアによれば
1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とその女中であるハルという名の女性の間に私生児として生まれた。生後まもなく、生家近くの、真言宗寺院雨宝院住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この際室生照道を名乗ることになった。私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は、生みの母親についてのダブルバインド(二重束縛)を背負っていた。『犀星発句集』(1943年)に見える
夏の日の匹婦の腹に生まれけり
の句は50歳を過ぎた後も、犀星がこのダブルバインドを引きずっていたことを示している。
との出だしで紹介されている。
この犀星が愛したという散歩道、犀川大橋から上流桜橋にかけての道が「犀星の道」と呼ばれている。金沢市民も散歩したりジョギングしているのをよく見かける。
わたしも、満開ちょっと前の桜が咲き誇る「犀星の道」を散歩した。
(二枚目の写真右手前の階段を上ったところに、室生犀星文学碑がある)
金森
友人を尋ねるのときの手土産に何を持って行こうかと考えていた。金沢には日本三大銘菓の一つ森八の長生殿など老舗和菓子屋のお菓子が沢山ある。これら和菓子の中からとも思ったが、友人は最近、甘いものは控えるようにしていると聞いていた。かと言って糠漬けなどのしょっぱいものも良くないだろう。そうこう考えながら思い付いだのが「加賀棒茶」だ。加賀棒茶と言えば丸八製茶場の献上加賀棒茶がよく知られている。
丸八の創業は文久三年(1863)、加賀藩前田家の製茶奨励政策による打越茶園の歴史とともに歩んできました。丸八の商号は、初代 丸谷八左衛門に由来するものですが、今日の丸八の特徴は「献上加賀棒茶」に集約されています。
それは、昭和58年(1983)、昭和天皇に献上させていただいた「茎のほうじ茶」です。一番摘みの上質の茎を使用し、それを浅く炒りあげ、芳ばしさと澄みきった味をもとめて、独自の製法で仕上げました。(丸八製茶場のHPから転載)
丸八製茶場の本社/工場は加賀市動橋にあるのだが、ひがし茶屋街の端で茶房一茶をやっており、ここでも献上加賀棒茶を売っている。下のひがし茶屋街の写真で右端の暖簾が掛かっているいるのが茶房一笑。
一笑で手土産にする献上加賀棒茶を包装してくれるのをカウンターで待った。
ちなみに、「長岡大和屋・越の雪」「金沢森八・長生殿」「松江風流堂・山川」を日本三大銘菓と言っているようだ。
金森
今年の冬、雪はあまり降らなかった。玄関前の雪をかいたのは一度だけで、それも軽く済ませることができた。ニュースで報道されていた関東地方の積雪の方が多かったのではないとさえ思える。それでも寒かった。そんな冬もようやく終わったようだ。
兼六園の梅林にある梅のつぼみもほころび春を告げている。唐崎松の雪吊りも昨日取られたとテレビのニュースで言っていた。
下の写真は前の日曜日に撮影したものだ。
金森
金沢長坂にある大乗寺の山号は東香山である。古くは椙樹林(しょうじゅりん)、金獅峯(きんしほう、あるいは、こんしほう)ともよばれた。いまでも「椙樹林」や「金獅峯」の文字を記した額を寺の壁なでに見ることができる。
大乗寺は福井県にある曹洞宗大本山永平寺の第三代、徹通義介禅師(てつつうぎかいぜんじ)が正応二年(1289)に野々市に開山した。
その後、江戸時代初期に加賀藩家老本多家の菩提寺として金沢本多町に移転した。近くにあった坂はいまでも大乗寺坂と呼ばれている。元禄10年(1697)に金沢長坂に移転して現在に至っている。
金森
長坂にある大乗寺参道の横にある小径を入って直ぐの所に「十二義士の墓」の標柱がある。標柱には次のように書かれている。
『加賀前田藩は幕末より明治に移る時 藩内の意見が対立した 筆頭家老本多政均は保守派の反対にあい暗殺れさた 明治四年十二人の家臣はその仇討ちを果たしたが翌年政府より切腹を命ぜらる 本多家墓地前に十二義士の墓として供養す』
仇討ちで広く知られるているのは赤穂浪士による仇討ち忠臣蔵だが、幕末に金沢でも日本で最後の仇討ちがあったことを知る人は少ない。
金森
今年の冬は長く春は寒い。しかし、春は着実にそこまで来ている。兼六園の梅もつぼみがほころび咲き始めている。
金森
先の記事で本多町の鈴木大拙館近くに大乗寺坂があり、坂の名は大乗寺が由来であると書いた。大乗寺は元禄10年(1697)に本多町から今の長坂に移された。大乗寺の歴史は古く、弘長3年(1263)、富樫家尚が野市(現在の野々市市)に真言宗の澄海を招聘して創建したのが始まりである。その後いろいろの出来事を経て現在に至っている。
大乗寺は野田山の麓に位置する。野田山には加賀藩主前田家の墓地がある。野田山墓地は天正15年(1587)に前田利家が兄利久を葬ったのが始まりである。野田山墓地は前田利家やまつなど前田家の墓の他、金沢三文豪のひとり室生犀星の墓などもある金沢最大の墓地である。
前田利家の墓など前田家の墓は、富山長岡御廟の富山藩主前田公の墓に見られるような大きな墓石は建っていない。墓の中央に小高く土が積まれており、まるで古墳といった方がぴったりする墓だ。シカや熊なども出没する閑静な中にある。
金森
金沢の町には「広見」と言われる小さな広場のような場所がいくつかある。広見は幕政時代に設けられた。伏兵を配置するための戦略的場所、荷車などの回転場所、火消しの結集地、藩の高札や辻説法の場所などとして利用されていたようだ。
寺町には六斗広見があり、幕府の巡見使を金沢に迎える儀式を行うのにも使われていたとのことだ。
下の写真はひがし茶屋街入り口の広見だ。蛇足だけど、写真正面の浅田屋がやっている蛍家は平成26年3月15日をもって閉店とのことだ。
金森
幕政時代の金沢城の百間堀は今は埋め立てられて百間堀通りとなって、日本道100選のひとつにもなっている。この百間堀通りの広坂交差点で石浦神社と兼六園の真弓坂に挟まれた坂が広坂だ。この広坂を上ると右手に石川県立美術館がある。美術館を超えた隣が赤レンガ作りの民俗資料館で、ここを通り越して少し歩くと右に折れる小径がありる。小径の先が大乗寺坂だ。
金沢市が設置している標柱には「慶長から元禄年間に曹洞宗の古寺、大乗寺が坂下にあったのでこの名で呼ばれている。同寺はのち長坂へ移転した。」と記されている。長坂は山側環状道路でJAほがらか村がある辺だ。
大乗寺坂を下って少し歩いた右手に鈴木大拙館がある。ウィキペディアには次のように記されている。
「金沢市出身の仏教学者である鈴木大拙への理解を深め、思索の場とすることを目的に、金沢市が2011年(平成23年)10月18日に開設した。施設の設計は金沢市にゆかりの深い日本芸術院会員の谷口吉生。大拙生誕地の近くに立地し、借景となる本多の森公園との調和や大拙の精神とされる「静か」「自由」の具現化を図ったとされる。なお、開館日の10月18日は大拙の生誕日(旧暦)である」
町歩きの時によく立ち寄る場所でもある。
金森
金沢のひな祭りは旧暦に合わせ4月3日まで雛人形を飾る。加賀藩祖・前田利家が1599年閏3月3日に逝去したことから、しまうのを一ヶ月遅らせているとう言い伝えもあるようだ。
写真は金沢21世紀美術館近く広坂にある石川国際交流サロンに飾られている雛人形。このサロンは某地場銀行の頭取の家だったようだ。いまでは陶芸展とか写真展とかをよくやっている。町歩きの時に一休みかたがた立ち寄ったりしている。
金森