2013.12.26竹沢喜孝
わたしの東京暮らしも40年過ぎました。富山に居たのは20数年。倍以上東京に住んでいることになります。東京暮らしで、一番いいなあと感じていることは、冬でもマンションのベランダでお布団が干せるからです。女房も同感と言っています。(女房は金沢生まれ)北陸ではまず考えられないですよね。また洗濯物も乾燥していますので、すぐに干せます。北陸では、洗濯物は室内の暖房の周りに並べていますよね。その東京の冬の空を表わす風景として、我がマンションから見える東京スカイツリーの写真をご紹介します。
12/22に、横浜に住んでいる息子の孫のクリスマスプレゼントを買いに、藤沢のショッピングモールに行きました。そのショッピングモールの屋上駐車場から、夕暮れのきれいな富士山がみえましたので、つい1枚写真撮りました。
冬は、太平洋側は空気が澄んでいるので、遠くの富士山もきれいに見ることができます。
ついでに、藤沢は近くに江の島があります。
その展望台も見えましたので、それもついでに1枚写真撮りました。この展望台は、夜になると展望台全体がイルミメションされます。
以上
2013.12.25 竹沢 喜孝
12/20(金)、小雨とちょっとの晴れ間の間隙をぬって、以前から申込みしてあった神田川、日本橋川、隅田川のクルージングに一人参加しました。これらの川は、仕事に、遊びに、買い物の時に、道路から、電車から、首都高速道から眺めていた川でした。以前から、これらの川から東京の景色見たいと現役のサラリーマン時代からずーと思い続けていました。ようやく、このようなツアーを見つけました。急いで申し込みしました。その積年の想いが叶いました。
今回のクルージングで再認識したのは、東京の都心に、こんなに小さな川にも、いろいろの歴史と変遷があったということを知ったことですね。隅田川は、有名ですが----。これらの川は、ビルの谷間に、高速道路の下に、そして地下道にと、あまり人前にはお目にかからない川だからかも知れませんね。しかし、これらの今はあまり目立たない川ですが、江戸時代は、物資輸送の主役だった船の運河、海路だったのですね。当時7000の船がこれらの川を利用していたとのことです。それと千代田城(江戸城)を守るお堀の役目も果たしていたのですね。今回、この紀行文と写真とで、東京のクルージンク゜を堪能してもらえればと思います。今回のクルージングで、見上げる橋の数は、JR、地下鉄の鉄橋、高速道路橋含め48箇所です。写真は200枚近くカメラに納めたその一部です。
日本橋;今年、石造りの橋に掛け替えられて100年にあたります。川から見ると、やはり、高速道路の下だと妙実に感じます。この日本橋は、当時の江戸街道の起点ですが、ここは、海の傍であったのは驚きです。埋められて、埋められて、海など望めないし東京湾は、はるか海の向こう(?)。また、石垣が黒く煤やけているのは、関東大震災のときに船溜まりの木造船が焼けて漂着した痕だそうです。上を歩いて通っていただけだとわかりませんね。これも船に乗らないと。 ? ? ?。
東京証券所がある兜町、大中小の証券会社のビル街の茅場町の橋を通り、日本橋川の豊海橋を抜けると、一面大きな海原に出ます。ここが、隅田川です。
この小さなクルージングの船は、川面の波に大きく揺れます。
清州橋;その波間から今回のクルージングの絶景ハイライトの相似形の美しい清州橋の真ん中にそびえ立つ東京スカイツリー。この絶景は、船からのクルージングでしか見ることはできません。
隅田川の一時のクルージングも、両国橋の手前から、今度は、神田川にはいります。この川の名は、われわれの年代は、 "あなたはもう忘れたかしら? 赤い手ぬぐい、マフラーにして・・・" 南こうせつとかぐや姫の「神田川」を思い浮かべますね。名曲ですね。よく、学生時代に聞きましたね。涙がでますよね。
その神田川は、三鷹にある井の頭公園内の井の頭池に源を発し東へ流れてくるそうです。
源流が井の頭池だとは、これもおどろきですね。
柳橋;この柳橋は神田川の最後の橋となって、隅田川に流れ注ぐのだそうです。
神田川と隅田川合流地点のため、この柳橋辺りは屋形船の船溜りになっています。
川沿いには、屋形船が、何十漕も係留されています。この柳橋は、老舗の佃煮と船宿が集まっており、都心のビルの谷間の中で、江戸風情が残っているところでもあります。今回、ここの佃煮の老舗のお店の一つである「小松屋」に横づけし、早速の買い物タイムです。わたしは、「生あみ佃煮」500円/個をゲットしました。今夜の酒のお供に、そして温っかな白御飯のお供にしよっと。
聖橋;この神田川の中で、アーチ形の一番美しい橋です。駿河台の名の通り、高低差があり、真上には、JR御茶ノ水駅があり、その下を丸の内線が通ります。
この付近は、東京医科歯科大、順天堂大病院、明治大、日大などが集まっています。私も、この御茶ノ水駅は、サラリーマン時代、日立の本社があり、通算7年間通勤に利用していました。今は、再開発され、本社ビルは、新しい高層ビルに建て替わっています。
左の写真は、東京ドームを過ぎた水道橋と飯田橋の中間点にある魔何不思議な光景に出合いました。
これは、東京都の港湾局の施設です。東京都内から出る残土/ガレキなどを東京湾の夢の島などの埋立地に運び出すそうです。砕かれた残土/ガレキが上からダストシュートで、下のダルマ船にいれられます。それを、この神田川、隅田川経由して運び出されるそうです。今まで、埋め立てられた土地といか、地面は全部、このダルマ船で運んだそうです。ダンブカーでいうと、この一艘で、70?80台分相当だそうです。かんがえてみたら、ダンプカーが、東京というか、日本の顔である銀座通りに、残土/ガレキを満載したダンブカーが走っていたらと思うと背筋が寒くなりますね。むかしから、エコーやっていたのですね。
これも、今回のクルージングの大きな成果の一つです。
この一艘のダルマ船に、感謝。感謝ですね。
左の写真は、九段下あたりです。この上の高速道路は、首都高速5号線池袋線です。わたしは、羽田、湾岸に行く時に通る高速道路です。下が日本橋川になっていたのですね。
石垣には、大名が刻印させた○、×、◎などの石垣紋が見ることができます。これは、通常見ることはできないものです。このあたりは、江戸城の外堀の役目も果たしていたそうです。
左の写真は、大手町の付近の常盤橋です。日本銀行の本店、三越日本橋店などが近くにあります。東日本大震災で、一部、橋が崩れため、今、修復工事中ですが、皇居の二重橋
と同じ、眼鏡橋です。
100分のクルージングもようやく、終わりになりました。
出発地点の日本橋に戻ってきました。寒風の中、実りの多いクルージングでした。
第二弾は、200枚近い、写真を1枚1枚、コメントを付けて、整理したいと思っています。
以上
himikoです。
「炉開き」という花だそうです。
初釜に使われる事があるので この名がつきました。
主人は ツバキか 山茶花か わからないと言っています。
枝振りは 針金をかけて 文人木(ぶんじんぎ)に仕上げました。
自然界ではあり得ないかたちを 風流として 好まれているそうです。
800円程で買った 小さな木に 針金をかけて この形にしました。
7から8年かかったそうです。
母は (椿は 首から ぽろっと落ちるので 茶花には 使わない。山茶花ではないか)と 言っています。
葉の形状が 縁にギザギザがあるので 山茶花のようですが、どちらか お分かりになる方、教えて頂ければ幸いです。
最近なぜか「大きいことは いい事だ ♪」というコマーシャルソングを思い出す。口ずさんでしまう。
私たちが育った高度成長期にはビッタリで、なんの疑いもなく大きさに夢を求めて突き進んだ。
一方、「時代は高度成長から低成長の時代になる。低成長時代にそくした準備をすべき」と言われて久しい。しかし掛け声だけで未だに私たちも政府も高度成長を求めている。成功体験から抜け出せていない。
産業にしろ農業にしろ、規模を拡大すれば効率が上がり競争力が増して収益も上がる。それによってみんなの生活も豊かになると考えている。だから企業は合併してより大きな企業になることを目指す。自治体は平成の大合併でやたら大きな市や町を作ってきた。安倍自民党などは農業政策を転換して農家の大規模化を推進すると言っている。「大きいことは いい事だ ♪」と言わんばかりである。
さて、本当に「大きいことは いい事だ ♪」なのか。合併して大きくなった企業が私たちに大きな富をもたらしているだろうか。合併で大きくなった都市銀行が良い例だ。彼らは中小企業を支援してくれているだろうか。国債を買ってマネーゲームに明け暮れ、大企業に資金を垂れ流しているだけだろう。やたら大きくなった市や町は住民のためにサービスを充実させているだろうか。
「大企業や自治体のゾンビ化が目立たなくなった。」「破綻が少し先延ばしできた。」が実態だろう。
日本は本当の意味で「低成長時代にそくして人々の生活を守るための対応」を真剣に考え実行しなくてはいけない。しかしながら既得権益でガンジガラメになっている。現状打破が難しい状況に陥っている。破綻への道、預金封鎖など行き着く所へ行くしかなさそうである。
私の描く低成長時代の風景、キーワードは(多分破綻してからのことになりそうだが・・・)
「地産池消」「地方分権」「集中から分散へ」「ネットワーク」「身の丈に合った生活」
そして「小さいことは いい事だ ♪」
金森
とあるプライベートなブログに投稿のあった記事を紹介する。確かにそうだと思う
若者、子供は働きたい、勉強したいと思っており、それを彼らにまかせ老いた私達は手を抜いて彼らにやりがいを持たせたい。第二の青春、人生二毛作と言っていつまでも若者の仕事を取ってはいけない。個人差があるが概して後輩に道を譲り老いてアドバイザーだけしよう。異性にも軽いジョブだけとばし、いやし系老人として安心させてやろう。日本の皆が自分の仕事を取りこんでしまうと日本はふんずまり爆発する。ヌケた老人が調和をもたらす。 俺は半太だ!!!
ちなみに私たちより一周り程先輩たちが運営しているプログに投稿のあった記事だ。
金森
長らく乗っていたスズキのラパンが7年目の車検を迎えた。車検では取り替えないといけない部品も多いだろうし、以降のメンテにも費用が掛かりそうなど、ディーラーの勧めもあってホンダのNワゴンに買い替えた。
我が家にはもう一台普通車のホンダフィットがある。フィットは高速道路などを使っての遠乗り用、軽自動車は義母の介護施設への送迎や買い物などに利用するなど使い分けている。今回のNワゴンも街乗りに使おうと考えていた。
そういうこともあってNワゴンは一番お手頃タイプにカーナビを付けた至ってシンプルなグレードのものにした。ところが、お手頃グレードとは言うものの標準でオートエアコンやABSが付いていたり、室内も広くゴルフバックも簡単に積める。
今週初めにNワゴンが納車されたので早速Nワゴンで京都に行ってきた。乗り心地はフィットに劣らず快適で疲れも少なく燃費もいい。妻も軽自動車Nワゴンには大変気に入ったようだ。
そんなわけで、これから我が家では軽自動車は高速料金も安いし、Nワゴンを遠乗り用にしてフィットを街乗り用にしようということになった。そして、義母の介護も必要なくなった時には軽自動車だけにしようと云うことになった。
ところで話しは変わるけれど、来年から軽自動車税が上がるようだ。米国からは、日本の軽自動車制度が車の日本への輸出の障壁になっていると圧力を掛けられており、これに応えるための増税といった見方もある。庶民や中小企業のことは二の次の安倍晋三政権には腹が立つ。
一方、軽自動車税を上げたからといって米国車の輸入が増えるとは思えない。増税しても思うように日本の外車輸入が増えないとなれば、米国は軽自動車制度そのものが日本への車の輸出の障壁になっているから日本は損害賠償しろとTPPを通して要求してくるかも知れない。バカげた話のように聞こえるけれどもTPPとはそんなものだ。
金森
東京―伊勢―紀伊那智―熊野―奈良五條―富山―東京2000kmの車旅紀行
学生時代の男友だち(共に年金暮らしの富山市出身者)と11/1?6の紀伊半島・富山の旅行記です。
11/1 7:00JR新宿駅西口待合わせ。一路、伊勢・鳥羽・志摩方面に向かう。(第二東名高速経由)午後、伊勢神宮の内宮20年の「式年遷宮」の年ということで、あたらしくなったお宮をお参りしました。伊勢神宮は、過去に何度もお参りに行きましたが、今回の「式年遷宮」で、内宮の中まで、入ってお参りしたのは初めてです。(左の写真)何か厳粛な気持ちでお参りしました。お昼は伊勢うどん、汁がない、濃厚なタレだが、慣れてくるうち、だんだんうまみが分かってきた。おみやげの赤福は、本店のお店、長蛇の列で、あきらめて途中のドライブインで購入することにした。伊勢神宮も、おかげ横丁も人で一杯。伊勢神宮のあと、今日の宿泊先の鳥羽・志摩半島の突端の町、大王町の民宿に向かった。この大王町は浜と灯台と漁師町として、よく絵の題材になる町。素人画家を自称しているわたしとしては一度訪れたいと思っていた町です。(下の写真)「今日は、夕日がきれい。」と民宿の女将さんに言われて、簡単に絵の題材用にスケツチを開始。一泊2食付きで6000円/人の超格安の民宿でしたが、お刺身は結構キトキトでした。
11/2 二日目は、この志摩の海岸線に沿って、一路那智勝浦に向かいました。
途中、まだ、紀伊方面は、高速道路が全部繋がっていないのか、ある程度、出来上がっている高速道は無料区間ということで、ズーと下の一般道を走るより、時間短縮ができ、高速代も浮いて、ラッキーと内が躍りました。お昼は、新宮の駅地元前の海鮮のお店。
地元の方が利用しているお店を選びました。観光客を相手にしている食事店は高いしうまくないのが定番です。だから、私は、個人旅行の場合、大概こういう地元の方のお店に入ります。やはりこのお店も700円の定食、二人が頼んだシラス丼と若鳥の唐揚げ、ボリューム、美味しさともに予想通り二重丸!!予想的中で、気分良く今日はちょっと早めのチェックイン(15:30)することにした。今日宿泊するホテルは、海が見える洞窟風呂など六つのお風呂があり、一度入ると家に帰るのを忘れるという「忘帰洞」のある「ホテル浦島」です。ホテルへは船で渡ります。
このホテルは、旅行ツア―ガイドには、必ず出てくる有名なホテルです。
まあ、このホテル、今まで私が知る限りでは、一番大きなホテルかなあ。ハワイアンダンスで有名ないわきのスーパーリゾートハワイアン並みの大きさですね。ツア客、一般の個人客と、人で、ごったっ替えしでした。
11/3 例の「忘帰洞」のお風呂はうわさ通りであったが、部屋から、各々風呂場は、遠くて、結局六つのお風呂場は踏破できず、三つで終わりでした。次の日の午前中も、ここのお風呂満喫しようかと予定していたが、朝早々にバイキングの朝食をとり、渡し船で、勝浦港の船着き場にもどった。車で一時間ほどの熊野古道の大門坂の駐車場に着き、ここから、よく、観光パンフの宣伝に使われている杉並木の古道の石段を登り、その後、那智大社、那智の滝、青岸渡寺、熊野本宮大社を参拝見学した。
その日のお昼は、昨日新宮でランチした同じ地元の海鮮料理店に入り、今度は新宮でしか食べられないクジラの尾身の刺身を初めて食べた。今までの食感とは違い珍味に近かった。いずれにしろ、こういう経験は旅のおもしろさだと思っている。
新宮から内陸のほうに入って、日本一の吊り橋の「谷瀬」経由で、奈良の五條市に宿泊した。
11/4 朝早く起きてホテルの近くを散策。奈良は柿の葉寿司が有名です。その柿の葉寿司を作っていた老舗のお店を散歩の途中で見つけ早速購入。これで今日のお昼はゲットしました。お昼が楽しみ。奈良と言えば、東大寺の大仏、法隆寺が頭に浮かぶが、この奈良五條は、江戸街道の宿場の街並みが残る静かな町である。吉野川がゆったりと流れ、紀伊の新宮まで、開通する予定であった鉄道高架跡が町の静けさに馴染んでいる。(上の写真)ここも私が、秘かに行きたかった隠れ名所である。個人の車旅行の良さである。ホテルでのゆったりした至福の朝食(バイキングではありません。)を取る。途中、道路沿い日本一の生産を誇る奈良の柿の木畑を眺めながら一路、高野山へ向かう。高野山に着くと、朝ゆっくりしてきたのが仇になり、狭い高野山付近の駐車場は、どこも満車の空き待ちで長蛇の列。そこで苦肉の策として、路上駐車し、何度の訪れている私は車に残り、今回初めての友人は降りて、急いでの高野山のポイント地を走り回っての観光となった。でも高野山の紅葉は結構きれいであったのが唯一幸いであった。この後、奈良、三重、愛知、岐阜の各高速道路を経由して、その日の20:00頃に、富山の我が実家に無事到着。今は両親の居ない実家であるが、このようにして、友人と一緒に泊まったり、ひとりでのんびり絵描きのためのアトリエに使ったりして、ちょっくちょっく富山に帰っています。その日は、長距離の高速道運転のため、軽く寝酒を飲んで爆睡。(年金暮らしの自由さを思う存分活用して)
11/5 我が富山の実家での私の手作りの味噌汁で、遅い朝食をとり、その後、宇奈月温泉、黒部トロッコ電車の発着駅の対岸(駐車料金のかからない場所)での紅葉見物に行った。夕方、簡単メニューのもつ鍋で一献傾けながら、もう一人の学生時代(石川小松出身)友人も交えて、夜おそくまで語り合い、旧交を温めた。その日は三人で久しぶりでの枕並べての爆睡に入った。(五福の彼の下宿で徹夜麻雀した時以来。)
11/6朝、私の手作りの朝食を取った後、我々の母校の五福の大学のキャンパスを訪れた。ついでに、その日も快晴であったため、立山連峰と富山市街地に一望できる呉羽山の展望台へと足を伸ばした。立山連峰をバックに三人の記念写真を撮り、三人の再会を約して別れとなった。その後、我々東京へ向かう二人は、41号線経由で、奥飛騨、上高地、各紅葉を楽しみながら松本I/Cから中央高速道にのった。この旅のスタートであった新宿西口で友人を下ろし、2000kmの長い旅の無事の感謝と再会を約して、別れた。お疲れ様でした。 終り
竹沢
入賞しました。 太田
演奏: アダルトベンチャーズ
オジサマーロックフェス2013 in TOYAMA(第53回富山まつり)
父と母は長らく呉羽で二人で暮らしていた。私たちは横浜から戻り、野々市に家を建て住んでいた。母は72歳の時に大動脈瘤が破裂して突然亡くなった。それから父には野々市に来てもらって一緒に暮らしていた。父は80歳になる頃から寝たきり状態での介護が必要になり、82歳で亡くなった。家に介護用ベットを入れて父を介護しながら暮らした。概ね10年間父を介護しながらの暮らしが続いた。妻にはずいぶんと世話を掛けた。
介護には結構手がかかるものだ。下の始末など体力的に辛いと思ったことはなかった。しかし、いつまで介護を続けないといけないのか、出口が見通せず暗い気持ちになっていたのを思い出す。
介護すれば体力が回復して動けるようになるわけではない。段々と体力が衰え認知症も進んでいくのを見ているしかない。そんな作業が介護だ。
父か逝ってから一年も経たない内に、富山に住んでいた義母の様子が可笑しいのに気付き、野々市に来てもらうことにした。以来、介護しながら一緒に暮らしている。今年で88歳米寿、寝たきりにはなっていないが認知症もだいぶ進んでいる。一緒に暮らし始めてそろそろ8年になる。
妻と一緒に親の介護はまだまだ続きそうだ。
金森
先週、山側環状から金沢大学を通りぬけ福光で東海北陸道に乗って白川郷ICで下りて飛騨白川郷白川村荻町を散策してきた。今年は夏が暑く長かったこともあってか、紅葉はいまいちで葉は色づく前に枯れ始めているようにも見えた。今年の紅葉はあまり期待できないかも知れない。
帰りは下道で五箇山を通って帰ることにして車を走らせた。5時頃に五箇山ICに差し掛かったが、この季節日が落ちるのが早く5時にもなれば暗くなってしまう。このまま東海北陸道に乗って帰ろうかとも思ったが宵闇の中の合掌集落を見たいという思いに駆られ夕闇の中五箇山菅沼集落に足を伸ばした。
晩秋飛騨白川郷 Nov. 2, 2013
晩秋越中五箇山菅沼集落 Nov. 2, 2013
金森