日々撮った写真の主なものをまとめたフォトギャラリーというページにしたので紹介する。
最新のものに入れ替えていこうと思っている。興味があったらお気に入りにでも入れて観てもらえればと思う。
金森
富山県立富山東高等学校5回生親睦会
熊本、大分を始めとして九州地方での地震が続いている。被災した人たちは避難所で不自由で不安な日々を送っている。
こういった皆さんの生活に少しでも役に立てればと、いままでは募金などに少額だけど気持ちを寄付してきた。
ただ、残念なことに、これらの寄付が被災した人たちの手元になかなか届かい現実がある。加えて、給水車で給水している避難所に大量の水のペットボトルが届けられたり、炊き出しされている避難所に大量のおにぎりが届けられたりして、支援物資が往々にして無駄になることが多いと聞く。
そんな中、アマゾンでは、避難所で必要としている物資のリストを作り、支援する人がその物資を購入して、ヤマト運輸に協力してもらい、必要としている避難所に、届けるといった取り組みをしている。
今回はこのアマゾンの取り組みを利用して、幼児用の肌着104枚入りパックを買って、熊本の避難所に送った。既に届けたとアマゾンから連絡があった。
合わせて、私が作っている「便利帳」に「震災地を応援」というコーナーを作って、利用者に紹介している。
「便利帳」
http://www.ofours.com/benricho/
金森
松代城は戦国時代の川中島の合戦の頃に武田信玄によって築城されたお城だ。
松代城は、永禄3年に武田信玄によって築かれ、高坂昌信を城将とした。 当初「海津城」と呼ばれていたこの城は、武田氏北信の要の城であった。 川中島の合戦は、この城を舞台に繰り広げられた。
天正10年、武田氏滅亡後に森長可が城主となったが、織田信長が本能寺に斃れると上杉景勝の支配するところなり、天正12年に須田満親が城将となった。
慶長3年、上杉景勝の会津移封によりこの地は秀吉直轄地となるが、慶長5年の関ヶ原の合戦前に森忠政が城主となった。 忠政は、関ヶ原の戦功により美作津山に移り、慶長8年に家康の六男松平忠輝が城主となった。
松平忠輝改易後、甥の松平忠昌が城主となるが、元和5年に越後高田へ移り、交替に酒井忠勝が10万石で入封する。
元和8年、酒井忠勝が出羽庄内に移り、替わって信州上田より真田信之が10万石を領して入封し、以後明治までこの地を替わることなく続いた。(「お城の旅日記」から転載)
信州は桜が見頃で、上田城に寄ろうかとも考えた。しかし、上田城近辺の駐車場は有料で、それにも増して混雑していることが予想された。そして、市内の周辺の駐車場に車を留めて送迎バスで上田城に行くことになる。一方、松代城は無料駐車場が近くにある。
確かに松代城近くに来ると大きな臨時駐車場が造られており、誘導員が案内してくれた。駐車場に車を留めて桜が満開の松代城跡を散策した。
松代城を歩いて堀に掛かる正面の橋を渡った所に竹風堂松代店がある。昼には少し早かったが、昼時は混雑して並ばないといけなくなるだろうと、早めの昼飯にした。竹風堂の本店は小布施にある。ここの「栗おこわ」は美味しいので、長野に来た時にはよく寄る店の一つだ。
松代店の横には池田満寿夫美術館が併設されている。長野市で育った異才の芸術家・池田満寿夫の作品を収蔵されており、竹風堂が運営している。
左手が竹風堂松代店、左手が池田満寿夫美術館
池田満寿夫美術館は以前に見学していたので、昼飯の後は、松代の町を散策した。松代町内のいろんな所で桜が咲き誇っていた。桜だけではない、松代は町並みが手入れされており、綺麗な町だと感じる。
しばし、松代の町並みを楽しんだ後、竹風堂に戻り、栗あんみつで疲れを癒やした。
金森
ゴルフに誘われて軽井沢の友人の家に行く途中、妻と松代に立ち寄った。
松代城は、
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城されたといわれています。千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城(かいづじょう)」と呼ばれました。(真田宝物館のHPから引用)
松代は桜が満開だった。加えてNHK大河ドラマ「真田丸」の舞台でもあってか、多くの人で賑わっていた。関西などからの観光バスも多く、さすがにNHKの影響力は大きいと感じた。
松代城跡を出た後、松代の町並みを歩いた。いたるところで桜が咲き誇っていた。松城町はこじんまりとした町だ。象山公園を過ぎ佐久間象山邸跡辺りに小高い山、象山がある。象山の麓に地下壕への入り口があった。無料で見学できる。ヘルメットを借りて地下壕の中に入った。
松代象山地下壕のチラシには次のように記されている。
松代大本営地下壕は、舞鶴山(現気象庁松代地震観測所)を中心として皆神山、象山に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は、十キロメートル余りに及んでいます。
第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和十九年十一月十一目から翌二十年八月十五目の終戦の日まで、およそ九箇月の問に建設されたもので、突貫工事をもって、全工程の約八割が完成しました。
この建設には、当時の金額で一億円とも二億円とも言われる巨費が投じられ、また、労働者として多くの朝鮮や目本の人々が強制的に動員されたと言われています。
なお、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、さまざまな見解があります。
工事は、一目二交替から三交替で進められました。食糧事情が悪く工法も旧式な人海作戦を強いられ、正確な数字はわかりませんが犠牲者も出たと言われています。
戦後は、訪れる人も少なく忘れ去られようとしていましたが、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として、多くの方々にこの存在を知っていただくため、平成元年から壕の一部を公開しています。
そもそも大本営とは、
大本営(だいほんえい)は、日清戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令=大陸命、大本営海軍部命令=大海令)として発令する最高司令部としての機能を持つ。本来「本営」とは総司令官が控える場所(中世の本陣と同義)で、これを更に仰々しい名にしたもの。(ウィキペディアから引用)
であり
太平洋戦争末期の敗色が濃厚になるにつれて、さも戦況が有利であるかのような虚偽の情報が大本営発表として流され続けた。このことから現在では、権力者が自己の都合の良い情報操作をして虚偽の情報を発信することを揶揄した慣用として「大本営」「大本営発表」という表現が用いられることがある。(ウィキペディアから引用)
最近では「美しい日本を取り戻す」と叫ぶ安倍晋三の記者会見を伝えるNHKニュース番組を思い浮かべる。
公開されている地下壕は極一部だった。地下壕を歩いている途中で、松代を案内している多分ボランティアの人が地下壕ついて説明しているところに出くわした。
なぜ、松代に大本営を作ることになったのか、大きくは4つあると考えているとのことだった。
その中でも、一番の理由は2.であり、次は3.だったと思っている。ただ、3.の理由は「長野県への疎開者が多いから、その疎開者を労働者として使う」と云うものだった。しかし、疎開するのは子どもと年寄りであり、軍の目論見は外れて労働力にはならなかった。そこで朝鮮の人たちを連れて来て、突貫工事をしたと考えているとのことだった。
戦争になれば、こんなものまで造らないと行けなくなる。ちなみに、これを造らせたのは東条英機のようだ。安倍晋三は東条英機を崇拝してるようでもある。安倍晋三の「日本を取り戻す」の真意は、岸信介、東条英機へと繋がる。
私たちは、安倍晋三が目指す戦前の全体主義の日本を取り戻すのではなく、安倍晋三自民党や公明党から国民主権、立憲主義の日本を取り戻すべきだろう。
金森
熊本地震でオスプレイ投入の一方、輸送能力がより高い自衛隊のヘリが棚ざらしに! 安倍-中谷が米軍と裏取引
首相官邸HPより
世界各地で墜落死亡事故を起こし、安全性が不安視されている米軍新型輸送機MV-22オスプレイ2機が昨日4月18日、熊本大地震の被災地に支援物資を運ぶため初投入された。しかし、安倍政権の思惑をいぶかる声が被災地からも噴き出している。
昨日午後、オスプレイは陸上自衛隊高遊原分屯地(熊本県益城町)に到着。水や食料、毛布など約20トンの物資を積み込み、南阿蘇村の白水運動公園に空輸した。しかし、地元記者によると、オスプレイが行った空輸は必要とされている部分ではないという。
「今、不足しているのは、交通が寸断した各避難所に人海戦術で輸送する手段。それと、支援物資は現在、全国各地からトラックで次々と輸送され、熊本県庁や市町村の庁舎に山積みになっている状態で、これを仕分けするスタッフ。運動公園まで運んでも、その先を運ぶ能力が不足しているので、あまり意味はありません」
実は同様の声は、自衛隊内部からも吹き出している。防衛省中堅幹部が、今回のオスプレイの投入にこう疑義を呈する。
「すでに物資の輸送は、被災地近くの海上自衛隊の鹿屋基地(鹿児島県鹿屋市)から出動したヘリ部隊が16日時点行っている。この部隊が機能しているのに、オスプレイを稼働させるのは、あまりに不自然だ」
しかも、自衛隊は、オスプレイと積載量が同等で容積がより多い、つまりたくさん荷物を積めるCH-47Jという輸送ヘリを70機所有しているが、待機状態のままだという。
「もし、大規模輸送が必要なら、木更津の陸上自衛隊第1ヘリコプター団のCH-47Jを使えばいいのに、そちらに要請の動きもなかった。はっきりいって、昨日の作業なら、CH-47Jで十分対応できる」(前出・防衛省中堅幹部)
オスプレイが初投入された18日、中谷元防衛相は参院決算委員会で「不安の中で生活している方々に物資を届けないといけない。自衛隊のヘリコプターの能力だけでは十分ではない」などと答弁し、オスプレイ投入の正当性を懸命に訴えた。だが、その主張には一貫して無理がある。
そもそも、安倍晋三首相は17日朝の官邸入りの際、米軍の支援について「申し出はあるが、いま直ちに必要ではない」とぶら下がりの記者団に答えていた。
情勢が変わったのは、その2時間余り後のこと。官邸を出てきた安倍首相は「米国から輸送支援ができると連絡が入った。大変ありがたい」と態度を一変した。大手紙の政治部デスクが内情を語る。
「官邸内で中谷元防衛相から安倍首相にアメリカの強い意向を伝えられたようだ。実際、米国国防総省のデービス報道部長は『長年の日米同盟があるからこそ迅速な支援ができる』などと米軍側が申し入れたことを事実上認めているからね。実は、今回のオスプレイ投入劇は、中谷防衛相と米軍との"取引"だったという指摘もある。今月24日、鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋基地で行う予定だった航空イベントに沖縄の米軍普天間飛行場所属のオスプレイが飛来し、公開する予定だったんだ。大地震の影響で取りやめになってしまい、米軍はせっかく日本にオスプレイを売り込むチャンスを逃してしまった。それに代わる苦肉の策が、今回の輸送劇だったのではという話だ」
安倍政権がオスプレイのパフォーマンスを受け入れたのはもうひとつ理由がある。今度は防衛省クラブ記者の話。
「陸上自衛隊がオスプレイ17機の導入を打ち出していて、2019年度から佐賀空港に順次配備する計画をもとに地元と3年越しの交渉を続けているのですが、いまだに同意を得られていません。今回、自然災害にも役に立つ輸送機だと宣伝できれば、同じ九州である佐賀の住民にも受け入れられるのではないかとの思惑があります」
いずれにしても、今回のオスプレイ投入劇は、被災地救済などでなく、安倍政権によるパフォーマンスだったのだ。実際、オスプレイの"勇姿"を是が非でも国民に見せつけようと大手マスコミを使う政府の手口はあまりに露骨だった。
通常なら入ることができない米軍岩国基地を報道陣に公開。18日午後1時にオスプレイ2機が出発し、被災地の熊本県南阿蘇村に午後4時ごろ到着するというスケジュールも早々に発表された。防衛省クラブ詰めの記者が語る。
「防衛省のきめ細やかな手配には驚きました。実際には物資の搬入などで出発が遅れ、オスプレイが南阿蘇村の白水運動公園に着陸したのは午後5時すぎ。公園も報道陣に公開されました。防衛省はオスプレイの出発から着陸までをメディアに大きく取り上げてほしい意向がありありでしたから、到着時刻がずれ込み、到着のシーンが宵闇に隠れやしないかと冷や冷やしていました」
そして、こうした売り込みを受けて、産経新聞などの安倍応援団メディアは、オスプレイを大宣伝。輸送能力の高いCH-47Jの存在を隠し、わざわざ積載量の小さい旧型機「CH-46」をもちだして「東日本大震災で出動した大型輸送ヘリコプターCH46に比べ、荷物の搭載量は約3倍となる」などと、デマをふりまいた。
それにしても、熊本大震災をめぐる政府の対応は常軌を逸している。菅義偉官房長官が15日夜、非常時の首相権限を強化できる「緊急事態条項」の必要性を唱え、どさくさ紛れに「改憲」を言い出したことはすでに本サイトで指摘しておいたが、それに続いてのオスプレイ投入。まさに、安倍政権にとって、被災者の生命や困窮などより、政治的パフォーマンスが大事であることの証明である。
(高橋憲一郎)
http://lite-ra.com/2016/04/post-2172.html
LITERAから転載
金森
おはなし
戦争と子ども
~富山県における学童集団疎開について~
お話する人 須山盛彰 さん
1935年富山市呉羽町生まれ。38年間に亘り中学校と高校で社会科教育に努め、その間、富山の歴史研究にも尽力されています。
2014年8月「富山県における学童集団疎開~戦争、子ども、地域と地域の観点から~」を上梓。(富山東高校の校長でした)
会場 富山市花木体育センター第1研修室
参加費 500円
(参加申込方法などの詳細は左の画像をクリック。案内チラシ・PDFが表示あるいはダウンロードされます)
「学童集団疎開」は、国民を巻き込む戦争の落とし子たった。今も日本に世界に、故郷から「疎開」しなければならない人々がいる...
疎開児童は「皇国少年、皇国少女」を目指せと励まされる中で、疎開生活のうちでの飢餓、病気、いじめ、不衛生、その他どんなにひどい状況があっても「我慢」、「勝つまでは」と、ひたすら堪え忍ぶことが強いられ、何か問題が生じても外に対して秘匿されたことは想像に難くない。
学童集団疎開は、第二次世界大戦における年少者に対する戦時施策であり、彼らはもっとも年少な戦争犠牲者とも言われている。さらに受け入れた地元の子どもたちに与えた影響も少なくないとされるし、受け入れ寺院や旅館、個人宅の人々、国民学校、町や村での担当者など関係した人々の苦労も並大抵ではなかった。それらについても、歴史としての記録は十分ではない...(著書まえがきより)
田中 彰
連絡を入れよういれようと思っているうちにとうとう例会前日とな
ひょっとしたら参加できるかなと思いながらいたわけですが、
参加される方々にはよろしくお伝えください。
ここ何回かの滋賀県と京都の桜の記事、楽しく拝見しました。
京都の桜は娘が中学・
今年も嵐山へ行く予定だったのですが、
それで昔の写真をいろいろ整理していたところ、
工事が始まって1年くらいでしょうか? 日付を見ると2010/10/30.入院中の亡き兄を見舞いに行
北陸新幹線は2015年に開通し1年足らずで利用客は1000万
が、
以下は私の愚痴のようなもので個人的な意見ですので無視していた
昨年北陸新幹線開通で関西に住んでいる人間からすると富山はずい
北陸新幹線の関西への延長ルートの話がニュースとして出始めてい
ニュースによれば延長ルートは3ルート。金沢から湖西線ルートで京都から新大阪、
最後のルートは非現実的な気がするので実現の可能性はないと考え
ただ今の東海道新幹線の込み具合を見れば北陸新幹線の乗り入れる
そう考えると、非常に個人的な意見となるのを覚悟で言えば、
観光は無視できないとは思いますが、仕事という面だけ見れば、
私が現役でいられるのは最大であと5年となりましたが、
今私が関わっている産業(化学、科学、医薬品などの基礎研究)
距離的にはそれほど無理な話でもありませんが、
広田
海津大崎の桜を楽しんで湖西道路を大津へと向かう。7時半頃、高島にある白鬚神社で休憩とした。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島」とも呼ばれている。
白鬚神社を出て、大津の三井寺に着いたのが8時半頃だった。
三井寺は、正式には「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山です。平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性によって天台別院として中興され、以来一千百余年にわたってその教法を今日に伝えてきました。 古い歴史と文化、多くの文化財や伝説の残る三井寺をご案内します。(三井寺のHPから引用)
朝が早かったので、駐車場にも車は少なかった。しかし、三井寺を出る頃には広い駐車場も満杯となっていた。
広い境内は桜が咲き誇っていた。
金森
世話人への連絡 higashi5@ofours.com へ
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