京丹後久美浜に「時空を超えるポスト」があった。ポストの説明には「あなたのメッセージを未来へ届けてみませんか?例えば1年後のご家族に、3年後のお友達に、5年後のあなたご自身に...。お正月にお届けします。」とあった。
例えば、今日(平成27年)に投函した絵葉書を、一年後の口に投函すると平成29年正月に、三年後の口に投函すると平成31年正月に、五年後の口に投函すれば平成33年正月に宛先の住所に配達するということだった。
久美浜は北前船の寄港地であり、この地の廻船問屋が「豪商稲葉本家」だ。「時空を超えるポスト」は、この稲葉本家にあった。
稲葉本家も北前船で財を成したようだ。「稲葉本家は、織田信長家臣、美濃の稲葉一族の末裔と言われ、この久美浜の地にて糀製造で得た富を背景に廻船業を営み、沿岸交易によって巨富を得、付近諸藩の金融を独占するほどの豪商でした。」(豪商稲葉本家HPから引用)
先の記事で紹介した能登天領黒島角海家も廻船問屋として財を成していた。このように廻船問屋として財を成した豪商は北前船の寄港地に多いようである。それら豪商の家の柱や張り、欄間などは、綺羅びやかさはないが、しっかりとして贅を尽くした造りになっている。食器も有田焼や九谷焼、輪島漆器などを使っており、当時の裕福な生活がうかがえる。
金森
少し前までは、日本の太平洋側を「表日本」と呼び、日本海側を「裏日本」と呼んでいた。この呼び方は明治時代に学術用語として用いられてからのようだ。ただ、なぜ学術的に太平洋側を「表」と表し、日本海側を「裏」と表すのかは定かではない。想像するに、明治維新に欧米列国が日本に開国を迫ってきたのが太平洋側の港であり、これら港が日本の玄関(表玄関)と考えたからかも知れない。
一方、明治より以前、幕政時代を考えてみると、北前船が全国の物資の流通を担っていた。太平洋側は東海道などの陸路、日本海側は北前船の海路で物資が流通していた。陸路でのモノの運搬は主に商人がモノを背負って運んだ。東海道などの宿場はこれら商人達で賑わっていた。
一方、日本海側は海路を北前船で、陸路よりも色んなモノを大量に早く運ぶことができた。北前船は寄港する港みなとで、その土地の珍しいモノを積み込み、次の寄港地でそれを売る。売った後、その土地の珍しいものを仕入れて、次の寄港地で売りながら、大阪から九州を経て北海道へと航行していた。日本海側の各地に、北前船の寄港地があり、そこでは廻船問屋が栄え、寄港地も繁栄して文化交流も盛んだった。
「表」と言えば、日があたり繁栄している。「裏」と言えば、暗く淀んでいる。といった印象がある。こういたった見方からすると幕政時代は日本海側が表日本といって相応しかったのではないかと思ったりもする。
一方、幕府は北前船に利用する船について、「大きさを制限する」とか「帆の数は一枚」といったように規制していたようだ。幕府以外の者が稼いで勢力を拡大するのが怖かったのだと思う。
教科書などに載っている日本地図を天地を逆さにして見ると、ものの見方も変わってくる。
地図: のとねっと 能登半島北前船ものがたり から引用
角海家(かどみけ)も幕政時代に栄えた廻船問屋だ。角海家は能登輪島門前の黒島地区にあり、幕府の天領地(直轄領)だった。なぜ、米も取れない江戸から遠い辺ぴな地を幕府の直轄領にしたのか。直轄領でありながら、なぜ無税にしたのか。北前船の寄港地である石川能美郡なども天領だった。加賀藩の勢力が増すのを恐れたからだろうと想像できる。
金森
参加予定者(7名 4月3日現在) 辰己(有本)、松原、中新、田中、羽黒、太田、金森
参加申込みを締め切りました。
出席予定の人はお忘れなく。残念ながら都合が付かなかった人は、ぜひ次の機会に参加してください。
(1) 日時と場所:
4月4日(土曜日)昼12時から
富山総曲輪レストラトゥールで昼食会(ビール、ワイン用意します)
(2) 会費: 4000円(会場で集めます。お釣りがなないよう準備して下さい)
(3) 参加申込締切日: 3月30日 午前10時(締め切りました)
(4) 募集人数: 先着15名(定員になり次第締め切ります)
(5) 参加申込方法
参加を希望する人は、次の何れかの方法で、参加の旨を世話人に連絡して下さい。
・ 世話人の携帯に電話、あるいはSMS(Cメール)
・ 世話人のE-mailアドレスにメール
(6)二次会は、都合が付く人で総曲輪丸一や新装なった富山駅の居酒屋などで自由にやって頂ければと思います。
ごの会世話人 金 森 喜 正
E-mail: kanamori@ofours.com
四高生の日々 運命決定 「風の盆恋歌」通底する物語
高橋治さん=2018年8月、金沢市内で
「風の盆」になると三日間で二十五万人前後の見物客が八尾(富山市)を訪れる。この「おわら」ブームに火を点(つ)けたのが高橋治の『風の盆恋歌』である。
この小説で八尾は全国に知られたが、高橋の金沢での回想を綴(つづ)った「金沢との出会い」(『花と心に囲まれて』所収)や「金沢の人々」(『人間ぱあてい』所収)などを読むと、八尾での物語の中に彼の金沢での逸話や金沢の街の風情が数多くちりばめられているのに気づく。八尾の街に流れるおわらの調べは「壁から謡が洩(も)れて来る」金沢の街の風情に通じ、二人の密会の家は高橋が下宿した金沢の家を髣髴(ほうふつ)とさせ、その家のくすんだ赤色の壁は金沢の情緒を漂わす。
主人公は四高(旧制第四高等学校)の卒業生で、金沢の彼の下宿に居候した同級生は自殺し、後に彼は東京の大学に進学して堀麦水を卒業論文にするなど、高橋と主人公の経歴は重なる。そして、泉鏡花の小説が度々顔を出す。八尾の「風の盆」を小説の表舞台にしているが、根底には金沢での物語が息づいているようだ。
高橋は昭和四(一九二九年)年千葉市に生まれ、地元の中学を卒業後、四高に入り、後に東大の国文科へ進む。人には生まれ育った故郷と、魂が目覚め、躍動して後々まで人生の糧となる心の故郷と言うべき地があるが、それが高橋には四高生として過ごした金沢なのだろう。
四高生の彼は野球と映画に熱中し、特に映画にのめり込んだ。各大学高専映画愛好会の連合組織の会長として金沢市内のどの映画館も顔パスで入館していたという。この映画への没頭が後に彼を松竹に入社させ、映画人としての道を歩ませる。また、金沢での三年間の最初の一年半は学生寮で、後は味噌蔵町裏丁に下宿し、この下宿家のおばさんが『風の盆恋歌』の八尾の家の留守番・とめのモデルである。そして、退職した教授が卒業後二十年も司法試験を受け続けている教え子の謎を追うという筋立ての『名もなき道を』(昭和六十三年)に彼の四高時代の日々を描いている。
四高記念館に展示されている四高生の写真 この前で記念写真が撮れるようになっている
この小説執筆の動機は、昭和四十八(一九七三)年に外国留学歓送のクラス会が金沢で開かれた折、卒業後初めて恩師・慶松光雄教授に再会した感銘によるものだという。
松竹入社後は小津安二郎監督等の助監督を経て松竹ヌーベルバーグを担う監督として活躍する。この間、脚本を書き、撮影、編集までも担当し、松竹退社後には戯曲も手掛け、故郷・千葉の海の汚染から環境、社会問題のノンフィクションも書く。これが機縁で大正期の日本のシベリア出兵を題材にした『派兵』を執筆する。『派兵』は高橋の初めての小説で、五年にわたり『朝日ジャーナル』に連載され、昭和五十二年に四十八歳の時に泉鏡花記念金沢市民文学賞を受賞する。この賞は高橋が作家として初めて認められた賞だった。心血注いだ大作だけに喜びもひとしおだろうが、作家としての自信も大いに得たに違いない。
受賞に際し、高橋は「私の運命は金沢と結びついている」と述べた。受賞の喜びばかりでなく、「泉鏡花記念」の賞名にも感慨深いものがあったのだろう。彼が四高に志望したのは「鏡花の生まれた土地だった」からと『風の盆恋歌』の主人公に言わせ、「金沢との出会い」では鏡花と島田清次郎ゆかりの地だからと述べている。
鏡花を特に好み、高橋家客室床の間には「雪洞をかさせは花の梢(こずえ)かな」の鏡花の俳句の軸が掛かっている。鏡花に魅せられて金沢に来て、そこでの青春が映画人としての道を歩ませ、今再び、金沢で鏡花ゆかりの文学賞で作家への道を確信する。金沢はまさに高橋の運命を決定する地だった。
金沢美術工芸大の非常勤講師を六年間務める傍ら、次々と小説を発表して『秘伝』(昭和五十九年)で直木賞を受賞し、作家としての地位を確かなものにした。また、俳人(俳号・台水)でもあり、映画、演劇の手法を駆使した彼の文学世界はますます多彩な広がりを見せている。
立野幸雄
能登輪島門前の総持寺祖院の門前に「能登手仕事屋」という蕎麦屋がある。先日、総持寺祖院を訪れた時にたまたま、昼ごはんに入った蕎麦屋だ。
「手仕事屋」という名前の響きからすると、民芸品を売っている店のようにも思えたが、蕎麦の看板が掛けてあったので蕎麦屋と分かった。
十割蕎麦より二八蕎麦の方がコシがあると説明してくれたので、ニハ蕎麦にした。蕎麦は、人間国宝で輪島を代表する漆作家、故・角偉三郎さんの器に盛られて出てきた。少し細めながらコシのある美味しい蕎麦だった。
金森
曹洞宗の寺院、山号は諸岳山。能登門前に総持寺祖院(そうじじそいん)がある。
元は諸岳寺(もろおかじ)と呼ばれた行基創建と伝えられる密教系寺院(一説には真言宗)。
1321年(元亨元年)に当時の住持である定賢が霊夢を見て越中国永光寺にいた瑩山紹瑾に寺を譲った。瑩山紹瑾はこれを禅林として改め、総持寺と命名して開山となった。
翌年、瑩山紹瑾は後醍醐天皇よりの勅問10問に答えた褒賞として、同寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の寺額が授けられたとするが、伝説の域を出ないと言われている。
1324年(正中元年)、瑩山紹瑾は「諸岳山十条之亀鏡」を定めて寺制を整えた。その後、寺を継承した峨山韶磧によって整備され、五哲と呼ばれた門人によって5ヶ所の子院が設けられた。曹洞宗の多くの寺院が同寺の系統をひき、本山の地位や諸権利を巡って越前国永平寺と論争を行うこともあったものの、「能登国の大本山」すなわち能山として親しまれた。
(ウィキペディアから引用)
引用した中に「越中国永光寺」とあるが、石川県羽咋市の「永光寺」を指しており能登国が越中国の一部だった頃のことと思われる。(先の記事 越中国の遍歴 を参照に)
1898年(明治31年)4月13日の大火で開山廟所である伝燈院経蔵といくつかの小施設を除いて焼失。1905年(明治38年)再建されたが、1911年(明治44年)に横浜鶴見への移転遷祖された。以降、横浜鶴見の総持寺が大本山となり、能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれるようになった。
平成19年(2007年)能登半島地震で、総持寺祖院も大きな被害を受けたが、震災から7年、平成26年3月に本堂や僧堂の修復が完成し、回廊などの修復が続けられている。
七百年の法燈を今に伝える伝燈院
正面奥の階段が伝燈院 前にある回廊は能登地震で壊れてなくなっており、現在再建中。(撮影: 1990年)
山門 総持寺祖院
金森
久しぶりに晴れた。昼ごはんは蕎麦にすることにした。
山側環状道路を角間の金沢大学キャンパスを通り抜け福光に出る。福光から国道304号を五箇山へと車を走らせた。高速道路を使わなくても一時間半もあれば相倉合掌集落に着く。
「まつや」の蕎麦は出汁がいい。どちらかと言えば、醤油控えめ関西系の味付けだ。
最近、五箇山にはよく行く。道路事情など、金沢からの方が富山からよりも便利で行きやすいのではないかと思う。金沢を起点に、城端、五箇山、白川郷、高山へと巡ることができる。
金森
今日の晩酌は中村酒造の吟醸生貯蔵酒。本社は金沢長土塀とあるが、その住所には会社と思えない民家があるだけ。実際は野々市に蔵があり、ラベルには工場が野々市とある。もともとは金沢が創業の地、訴求力からすればやっぱり「金沢」なんだと思う。蛇足だけど、金沢本多町にある中村記念美術館は中村酒造が金沢市に寄贈したものだ。
紹介する吟醸生貯蔵酒は、味はフルーティにも関わらず、すっきりと切れがある。女性にも人気になる酒と思う。
肴は、四十萬谷本舗の「能登いかの野菜づめ」にした。
金森
そろそろ例会やりませんか。
みなさんとワイワイやりたいと思いながらいろいろ考えてますです。
3月には北陸新幹線が開業になります。そのせいか、金沢でもいつも行く居酒屋が観光客で混み始めてます。いままでになく、予約しないと入れないといった感じになってます。
富山もそうなってるんじゃなかいと思いながらも、総曲輪の丸一はまだ大丈夫だろうと思ったり思わながったり。
来る3月のどこかで、総曲輪丸一で、みんなで一献やれたらと思っている次第です。ただ、丸一にはこだわってなくて、もちろん金沢でやるのもOKです。
そんな訳で、いろいろとみなさんの都合やら希望などを聞かせてもらえると嬉しいです。
遠慮なく、電話、あるいはSMS(Cメール)するとか、kanamori@ofours.com へE-mailするなどして貰えると嬉しいです。みなさんの都合やら希望を聞いて企画したいと思ってます。
2月22日 追記
座敷に座るのは辛いという連絡があった。確かに、そういう歳になってきた。以前、金沢ひがし茶屋街「十月亭」での例会の後、金沢駅の「駅の蔵八兆屋」で二次会をしたことがある。実は今日、この八兆屋が3月14日に富山駅でもオープンすると知った。八兆屋は手頃な値段だし、人数の変動にも柔軟に対応してくれる。
ただ、まだ問い合わせ電話番号も分からないので、金沢の八兆屋に問い合わせてみた。2、30名は入れて足を下ろせる席もあるだろうとのことだった。今度の例会の会場の候補にした。
ちなみに、八兆屋は「8番らーめん」で知られている金沢に本社があるハチバンがやっている居酒屋だ。
2月24日 追記
八兆屋は足を下ろせる席もあるし人数の増減にも柔軟に対応してくれそうなので、例会会場の第一候補と思っていた。しかし・・・
席は他の客もいるオープンスペースになるだろうから、挨拶などやりづらいだろうし、他の客にも迷惑になるだろう。やるなら二次会だな。と考えなおして、別の店に当たっている。
二三日中には案内できると思う。しばしお待ちを
金森
生活の党と山本太郎となかまたちは1月30日、日本を元気にする会、新党改革・無所属の会の野党3会派共同提案で「高等教育に係る家計の負担を軽減するための税制上その他の必要な施策の推進に関する法律案(高等教育負担軽減法案)」を参議院へ提出した。
本法案は、大学や高等専門学校、専修学校といった高等教育を受ける際にかかる費用について、家計への負担を軽減するため、税制措置や制度の拡充等に関する基本理念を定め、学ぶ意欲のある人が高等教育を受ける機会を確保することを目的とした内容となっている。
この法案が成立することを願っている。
法案(PDF)
金森