少し前までは、日本の太平洋側を「表日本」と呼び、日本海側を「裏日本」と呼んでいた。この呼び方は明治時代に学術用語として用いられてからのようだ。ただ、なぜ学術的に太平洋側を「表」と表し、日本海側を「裏」と表すのかは定かではない。想像するに、明治維新に欧米列国が日本に開国を迫ってきたのが太平洋側の港であり、これら港が日本の玄関(表玄関)と考えたからかも知れない。
一方、明治より以前、幕政時代を考えてみると、北前船が全国の物資の流通を担っていた。太平洋側は東海道などの陸路、日本海側は北前船の海路で物資が流通していた。陸路でのモノの運搬は主に商人がモノを背負って運んだ。東海道などの宿場はこれら商人達で賑わっていた。
一方、日本海側は海路を北前船で、陸路よりも色んなモノを大量に早く運ぶことができた。北前船は寄港する港みなとで、その土地の珍しいモノを積み込み、次の寄港地でそれを売る。売った後、その土地の珍しいものを仕入れて、次の寄港地で売りながら、大阪から九州を経て北海道へと航行していた。日本海側の各地に、北前船の寄港地があり、そこでは廻船問屋が栄え、寄港地も繁栄して文化交流も盛んだった。
「表」と言えば、日があたり繁栄している。「裏」と言えば、暗く淀んでいる。といった印象がある。こういたった見方からすると幕政時代は日本海側が表日本といって相応しかったのではないかと思ったりもする。
一方、幕府は北前船に利用する船について、「大きさを制限する」とか「帆の数は一枚」といったように規制していたようだ。幕府以外の者が稼いで勢力を拡大するのが怖かったのだと思う。
教科書などに載っている日本地図を天地を逆さにして見ると、ものの見方も変わってくる。
地図: のとねっと 能登半島北前船ものがたり から引用
角海家(かどみけ)も幕政時代に栄えた廻船問屋だ。角海家は能登輪島門前の黒島地区にあり、幕府の天領地(直轄領)だった。なぜ、米も取れない江戸から遠い辺ぴな地を幕府の直轄領にしたのか。直轄領でありながら、なぜ無税にしたのか。北前船の寄港地である石川能美郡なども天領だった。加賀藩の勢力が増すのを恐れたからだろうと想像できる。
金森
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