先日紹介した「二兎」で食事をした後、脇の道を山の方向に車を走らせる。暫く走ったところに、国造里山公園(こくぞうさとやまこうえん)の入り口、和気の池がある。ここから、虚空蔵城跡(こくぞうじょうせき)へ通じる道がいくつかある。今日は、常基寺の道で山に入り、本丸虎口の道で本丸跡に出た。
本丸跡に入ったところで、妻が甲高く叫んだ。大きなヘビを蹴飛ばしたようである。ヘビもびっくりしたようで、クネクネと大きく身体をくねらせて逃げていく。
実は、私はヘビが大の苦手で、情けないことに足がすくんで、成り行きをじっと見ているのが精一杯であった。ヘビが道をあけてくれるのを確かめながら、本丸跡にある案内板を読んだ。
虚空蔵城跡(通称本丸跡・二の丸跡)
虚空蔵城跡は、標高137mの虚空蔵山の頂上から尾根づたいにつくられた山城です。和気山城ともよばれ、数々の伝説が残っています。一向一揆が始まった文明6年(1474)に加賀の国の守護職を兄弟で争った富樫幸千代(金剛寺幸松)がこの城にたてこもっていました。同年10月に兄の富樫政親(とがしまさちか)と一向宗徒に攻められて落城しました。その後加賀の国は、一世紀余り一向一揆で「百姓の持ちたる国」となりました。二度目の落城は、天正8年(1580)、織田信長の武将柴田勝家が、家来の佐久間盛政に命じて攻め落としたものです。この時の城主は、一揆の大将荒川市助と中川庄左衛門といわれています。このように虚空蔵城は、一向一揆と運命をともにした象徴的な城でありました。
標高137mの頂上部分に周囲に土塁と空堀をもつ通称「本丸」があり、その南側に直線距離で約100m、標高差で約4m低い位置に周囲に土塁と空堀をもつ通称「二の丸」がある本格的な山城です。本丸からは、見晴らしの良い景色が広がり遠くの海まで見わたすことができます。
能美市
近くの木に登って、こちらを警戒しているヘビを確かめた後、馬場搦手の道、黒岩の道、牛首谷の道を通って、和気の池に戻った。
イッテミア・ミッション「「二兎」で食事、虚空蔵城跡を歩く」
一度、G I レースを見てみたいと思っていた。今年の宝塚記念は史上最高の豪華メンバーという噂を耳にした。
なるほど、ウォッカ、カワカミプリンセス、メイショウサムソン、アドマイヤムーン、・・・。大して競馬に興味のない私でも耳にしたことがある名前が並んでいる。これほどのメンバーを直に見る機会はそうないだろうと思うと興味がわいて行ってみようと思った。
当日は雨にも関わらず競馬場全体がG I 宝塚記念を待つ熱気で溢れていた。その中にいる私も何故かウキウキ熱くなった。
馬券は外したが、これぞG I と感動するすばらしい馬たちのすばらしいレースは癖になりそうである。
イッテミア・ミッション「阪神競馬場で宝塚記念」
初代 石田祥石作 |
初代 石田祥石作 |
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故 中村是好さん |
盆栽には 当然盆栽鉢が必要な訳ですが、主人の収集品の中で私が好きなものを紹介します。
初代 石田祥石の作です。初代、祥石さんは去年亡くなって、今は息子のお嫁さんが二代目祥石を
次いでいます。初代、祥石さんは唐子を得意とし、女性らしい繊細な絵柄は全て手書きで下絵なしに
絵付けをされたそうです。盆栽鉢は普通の焼き物とはまた違った世界です。素人の私にすれば同じ焼き物なんだから、茶わんの底に水抜きの穴を開ければいいのかと思っていたんですが、盆栽を知っているのと、知らないとでは全く違うらしいんです。
盆栽鉢の作家も沢山いらっしゃいますが、俳優の故中村是好さん、プロのオートレーサーの福田茂さんもその一人です。
先日、福田さんの工房、福茂庵を訪ねる機会を得ました。始めはコーヒーカップや湯飲み茶わん等を焼いていらしたそうですが、そのうち趣味の盆栽の鉢を焼きはじめ、今ではどっちが本職かわからないとおっしゃっていました。今年の第81回国風盆栽展国風賞受賞席にも福茂鉢が使用され、盆栽鉢作家としての地位も不動のものにしました。盆栽鉢と茶わんと両方を手掛ける数少ない作家の一人です。
福茂庵を訪ねた時の話はまた次の機会に。
卑弥呼
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清水公園芝生 |
週末、千葉の野田市にある「
清水公園」の“花のファンタジア”へ、痛んだ心を癒すためにラベンダーを見に行って来ました。
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清水公園ラベンダー |
さまざまな花々や樹木が出迎えてくれました。
イングリッシュガーデン、バラ園、ラベンダー畑、麦ナデシコの草原、そして花菖蒲、睡蓮など水生植物の世界?幸せな気分に浸れました。花の薬用効果は絶大です。
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清水公園蓮 |
帰路、同じく野田市の「
野天風呂 湯の郷」に立ち寄りました。
岩風呂、打たせ湯、塩のサウナ、石のベッドのヒーリングサウナと、良い汗をかくことができました。
身体もすっかりリラックスできた野田の休日でした。
kokko
JR横須賀線、北鎌倉の駅を降りて、鎌倉の方向に少し歩いたところに「明月院」がある。
このお寺は、「あじさい寺」とも呼ばれている。六月のあじさいの頃ともなると、多くの人があじさいを見に訪れる。
この写真は、1970年半ばの明月院の風景だ。写真のネガを整理していたら、たまたま出てきたものだ。もう何年も、いや二十年以上、明月院には行っていなと思う。
そろそろ、明月院のあじさいが綺麗な季節になる。今年のあじさいはどんな表情を見せるのだろうか。
今、同期生から電話があった。
3年7組の牧野勤さんが、今朝亡くなったそうである。7組の担任だった松岡先生から連絡の電話があったとのことである。 まだ、詳細は分っていない。
同期会として弔電をお願いした。冥福を祈るばかりである。
ドゥロス号は1914年、有名なタイタニック号の2年後に建造され、現在でも航行している船としては世界一古い船としてギネスブックに認定されているという。そんなドゥロス号が現在金沢港に寄港している。
船の最上階には、世界最大の船上書店があり、英語の本をはじめとして、約6000タイトル50万冊の世界の本をのせているそうだ。
富山城は小さなお城で、今は郷土博物館になっている。最近、外壁を塗り替え、石垣も組み替えて綺麗にしている。もう少しで工事も終わりそうである。
富山を故郷に持つ者に取っては、なにかと懐かしさを感じるお城である。お城を見ていると、あの頃のいろんな出来事が思い起こされてくる。
街を散策していて、フッと疑問に思うことがあった。それは、町の呼び方である。
富山では、西町(にしちょう)とか新富町(しんとみちょう)と、町を「ちょう」と呼ぶことが多いように思う。一方、金沢では、片町(かたまち)とか竪町(たてまち)と「まち」と呼ぶことが多いように思う。
なぜだろうとインターネットで調べてみたら、「地名の由来」と言うページを見つけた。その中の「東京の地名」で次のような説明があった。
「マチ」か「チョウ」か?「迷ったことはありませんか。」意外と難しい由来があります。
今でも「まち」と呼ばれる地名の多くは、江戸時代に「御」が付き幕臣の屋敷でした。
町人地の「ちょう」と区別するため、「まち」と読まれます。
なる程、そう言えば時代劇を見ていても、町に暮らす人達を町人(ちょうにん)と言っている。武士が住むところを「まち」と言い、町人の住むところを「ちょう」と呼び、それが今に至っている。と、いう事のようだ。
そうこう考えていて、富山城の近くの諏訪町は、「すわまち」と呼ぶのだろうか、それとも「すわちょう」と呼ぶのだろうか。どっちだったろうかと、フッと疑問に思った。
同じ表記でも、日本各地で、その呼び方が違う。「まち」と「ちょう」は奥が深い。残念ながら疑問は解決しなかった。
ちなみに、「
「ちょう」か「まち」か、「むら」か「そん」か?」と分析しているホームページもあったので、紹介して置く。