昨日、義母が心療内科(精神科)の病院に入院した。
義母は、昨年夏からグループホームに入っていた。グループホームは認知症の人達が暮らす介護施設だ。それまでは、デイサービスとショートステイサービスを利用しながら自宅で介護していた。しかし、認知症が進み下の始末など自宅での介護が限界に近づいてきていた。ケアマネージャーさんもいろいろと心配してくれ、グループホームを紹介してくれた。ただ、入所まで半年ほど待った。
グループホームには二週間に一度は様子を見に行く。一週間程前に行った時に、義母の様子が少し変わっていると感じていた。上手く食事が取れなくなっている。一言で言えば「食べ方が分からない」「食器やスプーンなどの道具の使い方が分からなくなってきている」。時たま、スプーンの裏側で食べのもをすくってみたり、茶碗をクルクル回していたり、スプーンの持ち手をくわえてストローのようにして吸おうとしたりしていた。
介助して食べさせようとしても、余計なことをするなと食べようとしない。グループホームでの生活も限界になりつつあると感じた。
それから二三日して、認知症専門の病院で診察してもらおうということなった。
脳のMRIを撮るなどの診察で、即座に入院となった。脳はかなりスカスカの状態で、前頭葉なども機能しなくなっているようだ。感情も抑えられなくなっているようだし、かなりの脱水症状とのことだった。
入院費用はグループホームの費用より少なくて済みそうだが、治療入院なので入院は三ヶ月間が限度とのことだ。ただ、ソーシャルワーカーからは、退院したとしても自宅での介護は無理だと思うので、別の機関を紹介することになると思うと言われている。
今回のことで、認知症専門の病院があって、入院というのもあることを初めて知った。自分の中では、心療内科や精神科は「精神病院」といったイメージがあって、無意識にも一種の偏見があったように思う。
入院手続きをし、病室の様子をみて、近い将来、ひょっとしたらお世話になることになるかもと、ふと思った。
金森
昨年末に京丹後をドライブしで夕日ヶ浦温泉のホテルに泊まった。
今まで金沢から京丹後へは、北陸道を敦賀ICで下りて小浜に出てから天橋立で有名な宮津を通って京丹後へと行っていた。
朝早く起きて北陸道に乗る。冬の朝は暗い。いつものように北陸道のSAで、用意してきたカップ麺で朝食にした。高速道を使っての遠出は軽自動車に決めている。
昨年夏に舞鶴若狭道が全線開通となって、北陸道敦賀JCTで舞鶴若狭道小浜ICと繋がった。敦賀JCTから舞鶴若狭道で綾部JCTから京丹後に向かえば名勝天橋立の宮津に行ける。綾部JCTをそのまま進めば兵庫の吉川JCTで中国自動車道へ、神戸JCTで山陽自動車道へと繋がっている。神戸JCTを東に進めば名神、北陸道と大きな環を描く。
北陸新幹線の金沢開業で、東京からの観光など、金沢をベースにすれば、能登半島を始めとして越中五箇山、飛騨白川郷や京都など広範囲に日本を楽むことができる。
宮津駅で宮津・天橋立お食事クーポンを買って近くのホテルで昼ごはんにして、丹後半島へ車を進めた。
イタリアン風カニ鍋 水辺のホテル 京丹後
ズワイガニの刺身 水辺のホテル 京丹後
丹後松島 京丹後
金森
来る3月の北陸新幹線開業は楽しみだ。
全国から新幹線に乗ってたくさんの人達が、金沢に訪れてくれるだろう。ぜひ、兼六園などの名勝地や加賀料理など、金沢を始めとして、能登や富山など北陸地方を楽しんでもらえると嬉しい。
でも、ちょっとだけ心配なことがある。と、言うのも・・・
昨年末の兼六園のライトアップ時に思いもかけない光景に出会った。兼六園といえば「徽軫灯籠」が有名で、その灯籠の前で記念写真を撮る人達が多い。多いと言っても普段休日のときでも、灯籠の前の石橋を渡るのに多少の順番待ちがある程度である。
その日は、ライトアップされた徽軫灯籠を撮ろうと思った。徽軫灯籠付近に近づくと、「ここが最後」という行列の最後尾を示す看板を持つ人がいて、徽軫灯籠に行く人達を行列の後部へ誘導していた。行列の進みは止まることなく、ゆっくりゆっくりと進んでいる。多分、徽軫灯籠をバックに記念写真などは撮らせてもらえないだろう。目に焼き付けてゆっくりと進むのが精一杯のように思えた。
また、この時間であれば、客は少ないだろうと高をくくって入ったよく行くおでん屋、戸を開けたら、カウンターはほぼ満席でやっと座れた。他の客はどうも観光客のようだった。
金沢はコンパクトな街だ。金沢を訪れる人が多くなると、こういったことになるのだろう。覚悟しておかなくてはと・・・
金森
来る3月には待ちに待った北陸新幹線が金沢開業となる。金沢東京間が2時間半で結ばれる。寝台特急などで片道6時間で東京を往復していた時のことを考えると隔世の感がある。
一方、急ぎの時は小松空港から羽田へジェット旅客機を使って東京に行くことができる。ジェット旅客機であれば時間も劇的に短縮されてよさそうなものだ(感覚的には小松羽田間は30分程)。しかし、実際は飛行時間だけで未だに1時間もかかる。小松札幌間の飛行時間は約1時間半だ。北アルプスなど日本列島背骨山脈を迂回して飛行しないといけないから時間が掛るのだろうと自分なりに納得していた。
しかし最近、米軍が首都圏上空に高くて広範囲な「横田空域」などの制空権を設定していることを知った。このため、民間機は実質的には米軍が制空権を持つ横田空域などを迂回せざるを得ないためだということを知った。時間はかかり燃料費もかさむ。当然運賃は高くならざるを得ない。
N横田空域(EWSポストセビンから引用)
自国の首都上空の制空権が他国(米国)にあり自由に航行できないということである。日本は独立国ではなく、米国に占領されているいる植民地と言っても過言ではなさそうだ。
ちなみにこの「横田空域」がなければ、羽田伊丹間も30分程度になるという。リニア新幹線開発のための膨大な開発費や運行に必要な膨大な電力は必要なくなる。
安倍晋三自民党政府は、なにかと勇ましいことを言いながら「憲法改正」「武器輸出」「集団的自衛権」「秘密保護法」「沖縄辺野古軍事基地」「原発再稼働」「TPP推進」などの政策を進めている。しかし、これら政策の本質は宗主国米国の国益を優先する政策と考えると、なぜ日本国民の多くが反対しているこれらの政策を強引に進めるのか、その理由がうなずける。日本政府や官僚は米国従属の植民地政府、官僚機構ではないかと思えてくる。
参考にした記事
金森
Good Luck 2012年9月号表紙
富山には「Good Luck」というタウン誌がある。これの2012年9月号に「出雲勢による支配から大和王権による支配へ 越中古代史を探る 姉倉姫事件の鎮圧は出雲勢による越中統一を表現?」という記事が載っている。
富山の古代の歴史に触れることができ大変興味深く読んだ。詳細はこちら(PDF)を読んでもらいたい。特に興味を引かれた冒頭部分を引用した。(ただし、写真は私が追加した)
姉倉姫事件の鎮圧は出雲勢による越中統一を表現?
姉倉ひめ神社
先月号の『富山の風景』で、『神通川と呉羽丘陵ふるさとの風土』(廣瀬誠著・桂書房)をもとに、姉倉姫の神話を紹介した。簡単に振り返ると、船嶮山(富山市舟倉の一帯)を本居とした姉倉姫という女神は、能登石動山の伊須流伎彦(いするぎひこ)と夫婦だったが、伊須流伎彦が近くの柚木山(そまぎ)の能登姫と通じたため、姉倉姫は激怒し、この三角関係のもつれから越中・能登は戦乱となった。この騒動を聞いて、出雲から大国主神(おおくにぬしのみこと)(別名・大己貴命(おおなむちのみこと))がやってきて戦乱を鎮め、関係者を処罰した。姉倉姫は小竹野〈呉羽〉に謹慎させられ、機織の仕事で罪を償わされ、伊須流伎彦と能登姫は海浜にさらされたーという神話である。
能登石動山大宮坊 能登中能登町
ちなみに能登石動山は「のとせきどうざん」と呼ぶ、一方、富山県小矢部市にある「石動」は「いするぎ」と呼ぶ。石動をなぜ「いするぎ」と呼ぶのか理由が分からなかったのだが、ひょっとしたら「伊須流伎彦(いするぎひこ)」と関係があるのかも知れないと、ふと思った。
今回、この神話の意味と越中の古代史について、とても参考になる資料を見つけることができた。
『「喚起泉達録」(かんきせんだつろく)に見る越中古代史』(棚元理一著・桂書房)である。
棚元氏は、「喚起泉達録」にある「大己貴命(大国主ノ神)が国作りをした時」がこの事件を解明する手掛かりの一つになるという。2世紀は「魏志倭人伝」にいう争乱の時代で、越ノ国でも豪族が勢力争いを繰り広げ、能登の豪族・能登姫等が国境の伊須流伎彦を誘い込み、強引に越中への勢力拡張(領地横領)を企てたことから姉倉姫事件が起こったと分析する。そして、出雲の大己貴命(大国主神)が、この機会を利用して越ノ国へ下向し、越中を平定したのだという。越中を統一した大己貴命は、呉羽丘陵に越中統治の拠点を置いて農耕地の開拓や絹織物の生産を奨励したという。
金森
図は富山郷土博物館HPから引用
越国は現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域だ。この地域を古代では北陸道(ほくりくどう、あるいは、ほくろくどう)と呼ばれており、この北陸道の地域一帯を「越(高志)・こし」と呼んでいた。概ね、今でゆう「北陸地方」に位置する地域だ。
やがて北陸道は西暦600年代末に、越前、越中、越後の三つの地域に分割される。
図は富山郷土博物館HPから引用
その後、この三つの地域は、若狭国、越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国、佐渡国に分かれる。なお、越中国(えっちゅうのくに)は越後国や能登国の一部が含まれることもあったが、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)にその範囲が確定した。
図は松川遊覧船HPから引用
越中国の遍歴
(1) 7世紀末: 越国を三分割
(2) 天平13年(741年)
能登地方が越中に編入された。
(3) 天平宝宇元年(757年):
越中国から能登地方が分かれる。(現在の富山県の県境と同じとなる)
(4) 寛永16年(1639年):
加賀藩から富山藩10万石が分立。明治4年(1871)7月14日、廃藩置県により富山藩が富山県となる。
(5) 明治4年(1871年)11月20日:
新川県が設置され、県庁が魚津に置かれる。
(6) 明治5年(1872年)9月27日:
射水郡が新川県に編入され、県庁が富山に移る。
(7) 明治9年(1876年)4月18日:
新川県が石川県に編入される。
(8) 明治16年(1883年):
石川県から分離、現在の富山県となる。
いままで、江戸時代(幕政期)の越中の範囲は今の富山県と同じ位の大きさだったんだろうと漠然と考えていた。ところが、今の富山県の殆どが加賀藩であり婦負郡辺りの狭い範囲が富山藩だったことに驚いた。また明治の一時期、石川県は富山県を含んだ大きな県だったこともあった。なぜ、石川県と富山県に分割したのだろうか。その経緯に興味が湧いてきた。
金森
先日の記事「能登国一宮 気多大社」を書くのに越中国(富山県)の神社についてついても調べた。その中で「能登は越中国の一部だったとがあり、気多大社が越中国の一宮だった」「今では射水・気多・高瀬・雄山の4社ともが「越中国一宮」とされている」ことを知った。
雄山神社については、このブログでも昨年(2014)9月に「雄山神社・芦峅寺」で紹介した。
実は砺波の高瀬神社には2011年秋に訪れた折に撮った写真を動画にしてYouTubeにアップしていた。
高瀬神社は、御祭神は「大己貴命(大国主命)」を主祭神に「天活玉命」「五十猛命」を祀り、末社三社と砺波地区の村々里々に鎮座されます氏子の神々と越中国延喜式内社三十三座の神々を奉斎したお社。(高瀬神社のHPから引用)
金森
このわた(海鼠腸)は、ナマコの腸(はらわた)の塩辛。ウニ、からすみ(ボラの卵巣)と並んで日本三大珍味の一つ。この「このわた」をイクラと一緒に御飯に乗せた丼が「このわたいくら丼」だ。
和倉温泉の入り口にある「海ごちそう」の名物丼。「海ごちそう」は「なまこや」が隣でやっている食事処で、「このわたいくら丼」は能登丼にしては値段もお手頃1350円、この店でしか食べられない。日本三大珍味の丼、和倉温泉に行った時にでも話の種に寄ってみたらどうだろうか。
金森
能登半島の付け根辺り羽咋に気多大社がある。
気多大社にお参りしていると、スピーカーから「気多大社は越中の一宮でした。」という案内が流れていた。越中と言えば富山県のことだ。
能登国一宮 気多大社 能登羽咋
以前、「なぜ、越前と越中の間に加賀があるのか」を調べ、このブログでも記事を書いたことがある。(越前と越中の間になぜ「越」が付かない加賀があるのか 参照)
このとき、越国が分かれて「越前、越中、越後」となり、越前が大きすぎるので、越前と加賀に分割されたことを知った。能登もこういった歴史の中で越中の一部だったことがあるのではないかと思い、帰ってから調べてみた。
能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮は現在の気多大社であったが、能登国を分立する際に二宮であった射水神社が越中国一宮とされた。白山比咩神社の社伝『白山記』には、「二神(射水神社)が元々の一宮であったが、新気多(気多神社)に一宮を取られた」とあり、気多大社から分祀して国府の近くに新たに創建された気多神社(新気多)が力をつけ、二上と新気多とが勢力争いをした結果、新気多が勝って一宮を名乗るようになったということになる。延喜式の写本における名神大社の異同もこの勢力争いの結果によるものとみられる。ただし、気多神社は新しく作られた神社ということで、名神大社でありながら射水郡の最後に書かれている。
後に気多神社の社勢が衰え、また、平安時代末の一時、国府が礪波郡に移された関係から、礪波郡の高瀬神社(南砺市高瀬)が一宮を名乗るようになった。一宮について各国一社のみを記す書籍では、越中国の一宮は高瀬神社と記しているものが多いが、だからと言って高瀬神社のみが一宮であるということでもない。江戸時代に全国の一宮を巡拝した橘三喜は、「越中の一宮は礪波郡にあるらしいが、それらしき社は見えず」とし、射水と気多にのみ参って高瀬には参っていない。
中世に書かれた『神道集』では、越中一宮は立山権現(雄山神社(立山町))であると記されている。これは中世以降の立山信仰の普及に伴い、その中心地である立山権現が一宮とみなされたものとみられる。
現在では射水・気多・高瀬・雄山の4社ともが「越中国一宮」とされるが、射水神社・雄山神社は一宮の称を積極的には使用していない。(ウィキペディア越中国から引用)
氣が集まる入らずの森(原生林) 気多大社
能登の人の気質や味付けなど、どことなく富山(特に高岡)に似ていると感じることがある。こうみてみるとなんとなく納得できる。
金森
安倍首相は経団連などに法人税減税を餌に社員の給与を上げるように要請したようだ。この要請に応じて大企業は社員の給与を上げるだろう。しかし、正規社員の給与を上げれば景気がよくなるとは考えられない。日本の景気は安倍晋三首相(アベノミクス)の思い通りには行かないだろう。
企業の内部留保と賃金の関係を、ちょっと別の視点から考えてみた。
次のグラフは、企業の内部留保と平均賃金の推移だ。内部留保に反比例するように平均賃金が下降している。
ところで、企業は内部留保をタンス貯金してるだろうか。おそらく、取引銀行に預けているだろう。設備投資などで資金が必要になった時に、預けているお金を担保に銀行から資金を借り入れて使ったり投資する。これが一般的に企業がやっていることではないだろうか。
さて、銀行は企業などから預ったお金(ゲンナマ)は何かに投資するなり貸し出すなりして、利ざやをかせぐ。しかし、日本の銀行は投資は苦手だ。投資先として日本国債を買うのが関の山のように見える。蛇足だが、国民が郵便局に預けている虎の子の貯蓄の大部分は、日本国債になっていると思っていだろう。
次のグラフは、国内銀行の国債保有額と貸出金額の推移を示したものだ。
銀行の貸出残高と国債保有額がみごとに反比例している。企業などから預ったお金の投資先が国債になっていることを示している。
さて、企業が内部留保を取り崩す(内部留保を担保に資金を借りる)ということは、銀行が日本国債を売るということだろう。
日銀は止めどなくお金を刷って、銀行に供給し続けるわけにはいかないだろう。企業が内部留保を取り崩して使い始めれば、日本国債は暴落する。
お金の動き、景気の動きは、意外と単純のように思う。そして安倍晋三首相の思い通りにはいかないということだろう。
金森