久しぶりに五箇山蕎麦が食べたくなった。いつもの様に山側環状から金大角間キャンパスを抜けて福光に出て五箇山へと車を走らせた。
五箇山トンネルを抜けてしばらく走ると相倉合掌集落への登り口に着く。相倉集落の駐車場は有料ということもあり、登り口にある車を止めておけるスペースに駐車して歩くことにしている。
ここの「まつや」の蕎麦が美味い。温かい蕎麦が気に入っている。蕎麦つゆはくどくなく、どちらかと言えば関西風でわたしの好みの味だ。
金森
富山県立富山東高等学校5回生親睦会
山間(やまあい)の終着駅という言葉にはロマンが漂う。そこに祭りと華やかな文化の町が加われば旅情が募る。その想いに駆られ、城端駅へと向かう。駅に近づくにつれ、山々が迫り、やがて進行前面が高い塀のような山波に遮(さえぎ)られると電車は止まった。ホームに降り立ち、辺りを見回すと懐かしさに包まれた。昔に帰ったような、過去の一時点で止まったような木造瓦(かわら)葺(ぶ)きの小さな駅舎が目に入る。相対式ホーム2面2線なのだが、構内の境が駅舎側にあるだけで、レールは草の生える空き地で尽き、構内踏切で繋がる向かいのホーム裏は数本の桜の木と青々とした田が広がり、境界の代わりに赤や白、ピンクの大輪の芙蓉の花が咲き乱れている。レールは錆(さび)に塗(まみ)れ、枕木は朽ち、道床の砂利(じゃり)の間からは雑草が我が者顔に伸びている。構内は自然の為(な)すがままで素朴で飾り気がなく、駅は真夏の暑さの中で深い眠りに陥っているようだ。
蝉の鳴き声に追われて駅舎に入る。その狭さに驚いたが、それが古めかしい造りと相まって心がひどく安らぐ。壁に曳山(ひきやま)祭、むぎや祭、五箇山等のポスターが貼られ、観光駅の一面も窺(うかが)われ、城端をモデルにしたアニメ『トゥルー・ティアーズ』の放映後に置かれたコミュニケーションノートもあり、城端の新しい顔を覗(のぞ)かせている。
駅前に出て駅舎を見る。風雪で屋根の棟(むね)が歪(ひず)み、色あせた柱や板材には亀裂が走り、力尽きて今にも倒れそうに見えながら、明治30年から変わらぬ姿を保ってきた凜(りん)とした気迫が宿っている。屋根の駅銘板も厳(いか)めしく、「越中の小京都」に似つかわしくて風格がある。平成14,年「第4回中部の駅百選」に認定されたが、さすがと感嘆する。
駅前の高岡寄りに大駐輪場、反対側に離れて便所があり、真向かいの看板に「城端は機(はた)の声の町なり/寺々は本堂の扉を開き/聴聞の男女傘を連ね/市に立ちて甘藷(かんしょ)の苗売る者多し/麻の暖簾(のれん)京めきたり」と、民俗学者・柳田國男の紀行文の一節が書き留めてある。城端は絹と善徳寺の町だ。そして、裕福な絹問屋は贅(ぜい)を尽くして曳山祭を支援した。華麗豪華な曳山と庵(いおり)屋台。三味線の音色に粋な庵(いおり)唄(端唄)の唄声。曳山祭は目で見て耳で聞く祭りだという。ふと「忍ぶ恋路はさてはかなさよ/今度逢ふのが命がけ/よごす涙の白粉(おしろい)も/その顔かくす無理な酒」と、若い頃に好んだ端唄(はうた)が頭をよぎる。今も曳山祭で唄われている。すると、認知症の老人が引きこもりの青年に初恋の人を探してくれと頼み、その人を探しに城端に来た青年が事件に巻き込まれるという小杉健治の『もう一度会いたい』(平成19年)が頭に浮かんだ。小杉は、殺人事件の調査で城端に来た刑事が、その地で自らの出生の秘密を知るという『曳かれ者』(平成9年)も書いている。いずれも端唄が物語の要(かなめ)になっている。秋山ちえ子も嫁姑が労(いたわ)り合いながら曳山祭の夜に夫・息子を探し回る『二人静(ふたりしずか)』(昭和55年)を書いている。いずれも華やかな祭の影に潜む人の生の哀しみを切々と描いている。
城端の文化は底知れぬほどに様々な物語を生み出す。
観光客擦(す)れした京都より、小京都・城端は日本の真の文化を日々の生活の中で慎ましく伝えている。むぎや祭が間もなく始まる。その時、駅は再び息を吹き返し、優しい眼差(まなざ)しで多くの人達を迎えてくれるだろう。
城端駅は明治30年開業。1日平均乗車人員は230人前後。駅前からは五箇山行きのバスが発着している。
城端駅
立野幸雄
信仰に極めて厚く徳行に富んでいる人を真宗門徒では妙好人と言う。だが、学問に秀でて教理を論ずるような人ではない。真宗の教えを体得し、それに生きた個性的な人のことを言う。妙好人たちの中でも南北朝時代の越中国上平村西赤尾の道宗は、信条の徹底さと行状の厳しさで知られ、今日に至るまで真宗門徒から尊敬をもって慕われている。この道宗をモデルにして岩倉政治が昭和19年に「行者道宗」を書き、昭和22年に加筆して書き改めた。
「赤尾の道宗は、生涯を風変わりな行者でとほした男である。彼のことについては越中に伝説が残っている以外、あまり知る人はいない。ただ蓮如の「一代記聞書」といふものに三ケ所ほど「道宗」のことがみえ、それから拾塵記といふ文章にちょっと記されているぐらいである」。
これが「行者道宗」の書き出しである。前・後編に分かれた中編小説で、前編では岩倉自らが五箇山の道宗開祖の行徳寺を訪れ、そこで行者となるまでの道宗の苦悩と葛藤の姿を、後編では師の蓮如との交流を軸として道宗関連の挿話を加え、彼の信仰の心得というべき「道宗心得二十一ケ条」を記載して道宗の信仰を描いている。
挿話のほとんどは道宗の伝説で次のようなものである。道宗は武士の子で早い時期に両親を亡くした。親恋しさに筑紫の羅漢寺参詣途中の福井で、京へ行くようにとの夢のお告げがあり、それが機縁で蓮如の弟子になった。蓮如への傾倒が甚だしく、年に二・三度は五箇山から京の蓮如を尋ね、蓮如が井波の瑞泉寺逗留の折りには毎朝深雪の山奥から聴講に訪れた。寝る時には48本の割木を並べた上に身を横たえ、旅先では蕎麦ガラの上で横になったなどの奇行の数々である。
だが、伝説のままではなく、脚色や創作したものもある。それらは仏教学者・岩見護の「赤尾の道宗」(昭和31年)と読み比べれば一目瞭然だが、むしろそこに岩倉の主張が込められている。創作したものに、道宗が南朝方の武士の出で彼の元へ南朝の勤皇武士が訪ねてきて議論する個所がある。この個所は昭和19年版と22年版とでは大きく異なっている。
勤皇武士は国事に奔走しない道宗を仏教に逃避したと責める。それに対し、国事よりも弱者の庶民と共に仏に仕えることが大事と道宗は反発する。だが、19年版では最後に勤皇武士の私心のない天朝への志を理解して和解する。
しかし、22年版では武士の志自体が私心だとし、詔(みことのり)を吹聴する者が国史を曇らし、国民を困苦にすると非難する。22年版の〈まえがき〉で「あの当時の軍と結び付いた右翼国粋主義の思い上がった横行にはがまんのならぬものがあった」と岩倉が述べているので、おそらく22年版で右翼を勤皇武士に擬(なぞら)えたのであろう。
思想面で検挙された経験を持つ岩倉にとって戦時下の19年版では抑えざるを得なかったことを22年版で吐き出したに違いない。
岩倉政治は明治36年東砺波郡高瀬村(現南砺市高瀬)生まれ。大谷大学哲学科で仏教を学ぶ一方、唯物論哲学に傾倒し、思想弾圧で二度検挙された。「稲熱病」(昭和19年)で芥川賞候補。他に「村長日記」(農民文学有馬賞)「螺(たにし)のうた」など多数の著作がある。平成12年に死去。享年97。
禅の大家・鈴木大拙の「日本的霊性」(昭和19年)では妙好人として道宗と才市の二人を取り上げ、道宗は岩倉の紹介で知り得たとしている。鈴木と岩倉の親交の深さと鈴木の岩倉への信頼がよく分かる。「行者道宗」は岩倉が作家として油が乗りきった頃に書いた彼の伝記小説の力作である。
「行者道宗」岩倉政治((昭19年増進堂刊・22年百華苑刊)
「行者道宗」宗教作品集 岩倉政治(昭和54年法蔵館刊)
「赤尾の道宗」石見護 (昭和31年永田文昌堂刊)
「日本之霊性」鈴木大拙(昭和19年大東出版社)
行徳寺・越中五箇山
立野幸雄
性に目覚める頃(大正八年十月)
室生犀星
この犀川の上流は、大日山という白山の峰つづきで、水は四季とともに澄み透って、瀬にはことに美しい音があると言われていた。私は手桶を澄んだ瀬につき込んで、いつも、朝の一番水を汲むのであった。上流の山々の峰のうしろに、どっしりと聳(そび)えているひだの連峰を靄(もや)の中に眺めなら、新しい手桶の水を幾度となく汲み換えたりした。
金沢の西、野々市方向に犀川大橋を渡ったたもとに高野山真言宗のお寺、雨宝院がある。この雨宝院前にある案内板に冒頭の文章が記されている。
室生犀星は雨宝院の住職の養子として、幼少期はこのお寺で過ごした。雨宝院には室生犀星に関連した品々が展示されている。
金森
金沢の街には、無料で休憩に利用できる施設がいろいろある。
よく利用する施設に金沢21世紀美術館がある。「雲を測る男」が見える前にある椅子に座って一休みすることが多い。
そういった施設の中で、今日紹介するのは、片町にある「金沢学生のまち市民交流館」だ。「金沢学生のまち市民交流館」は、大正時代の金澤町家を改修した「学生の家」と、 旧料亭大広間の部材を用いて新設した「交流ホール」の二つの建物からなっている。
そもそもは、学生と市民との交流、情報交換等を通じて学生とまちとの関係を深めるとともに、自主的なまちづくり活動を支援することで、協働による市政の推進を図るのを目的とした施設だ。
ただ、「学生の家」には市民でなくても自由に入れる。有料で会議室などを借りることもできるが、飲食物を持ち込めるフリースペースもある。金沢の街を歩くときなど、大和デパートの地下などで、弁当とお茶を買ってきて、ここでランチするという使い方もあると思い紹介した。毎週月曜日は休館日。
金森
東山三十六峯の一嶺、月輪山の麓にたたずむ泉涌寺。皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ね、幽閑脱俗の仙境、清浄無垢の法城となっている。
当寺は天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。
御寺泉涌寺(せんにゅうじ)HPの「泉涌寺概略」にある一節である。
しばらく前から、ごの会ブログのタイトル画像は、昨年(平成25年・2013)11月下旬紅葉のころに撮影した京都御寺泉涌寺御座所庭園の紅葉を使っている。
御座所の東南から御殿の南側にかけて、小さな御庭が築かれている。霊明殿・御座所・海会堂そして御陵拝所に取囲まれた御庭は、小さいながらも無比の環境の中に自然と人工の巧の業を織りまぜている。低い築山の裾に曲折する池の汀、ひかえめに咲くさつき、真紅の紅葉、薄すらと雪化粧した雪見灯篭に映える梅もどき等々、四季折々に楽しませてくれる。(御寺泉涌寺HPから引用)
東尋坊の帰りに雄島に寄った。
東尋坊は自殺の名所で有名である。この東尋坊で身を投げた人が辿り着くのが雄島と言われている。確かに、雄島への赤い橋を渡るときなど、なんとなく背筋が寒くなるものを感じる。
また、島を反時計回りで歩くと、帰りに橋の真ん中辺りで霊が出て、霊に出会うとその後死ぬ」とか、「島の岸壁に行くと、その気が全くないひとでも崖から飛び降りてしまう」といった言い伝えがあるようだ。
金森
結婚前までフォークグループを組んでいたが、その第一回目のコンサートで最後の曲として作った。当初、歌詞は1番のみだったが、後で2番を書き加えた。このアルバムの中で番最初にカラオケが出来上がった曲で録音もさすがに歌いなれている曲なので録音も1回目でOK。
歌詞カード(たそがれ歌詞カードV2.pdf)
広田知紀
娘が高校生のころに作った曲。初めて聞いたときは、自分にはこんな曲はまず作れないと感じた記憶がある。自分の声の質には会わないだろうと思ってうたわなかったが、このアルバムを作るときに娘に断わって、アレンジに若干手を加えた。リズム系を少し強化したのと、エレピの分散和音を少し加えたのだが、娘も気に入ってくれたので一安心。
歌は出来上がったのを聞くと簡単そうだが、思った以上に難しかった。
歌詞カード(たそがれ歌詞カードV2.pdf)
広田知紀
世話人への連絡 higashi5@ofours.com へ
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