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『洛外八瀬奇譚』(一)

『洛外八瀬奇譚』らくがいやせきたん

(一) 
 いつの間にか、眠っていたらしい。目を開けると闇の底に沈んでいた。山裾に夜がまたやってきていた。雨風が窓ガラスを激しく打ちつけ、安普請やすぶしんの下宿屋の二階の部屋が微かすかに揺れていた。電灯を点けようと立ち上がると、窓下からしきりと軋きしむような金属音が聞こえてきた。隣家りんかの狭い庭のブランコの鎖が、比叡から吹きおろす雨風に打たれ、暗闇の中で耳障りな音を立てていた。        
 厭いやな夢だった。シャツがびっしょりと濡れていた。動悸どうきも激しい。胸苦しくてたまらない。厭な夢を見るから動悸が激しくなるのか、動悸が激しいから厭な夢を見るのか、それとも、ブランコの耳障りな音のせいなのか……。ともかく胸がキリキリと締め付けられ、苦しくて堪たまらない。息ができないほどだ。まったく厭な夢だった。ひどくうなされた。だが、どんな夢だったかは思い出せない。何か、八瀬やせの小野老人の家で聞いた話に係わる夢だったような気がするのだが……。おぞましいことだ。こんな目に遭うのも、二日前の昼下がり、下宿の裏山の道を散策したせいに違いない。
          ※
 あの日、比叡の中腹へと続く道を気晴らしがてらにブラブラと歩いていた。すると、木々の葉をパラパラと打ち付けて雨が降りだした。引き返そうとも思ったが、雨もさほど激しくはなく、それよりも、小雨に煙る比叡ひえいの山裾の林の風情に興きょうをひかれ、そのまま林の奥へと進んだ。それがいけなかった。進むにつれ、足元の道がしだいに狭まり、やがて草むらに消えてしまった。その時になり、初めて、枝道に踏み込み、迷ったのに気が付いた。迷ったと思った瞬間、気が動転してしまい、引き返せばよかったのに、かえってますます深い林の奧へと突き進み、完全に迷ってしまった。
 どれほど歩き回ったことか…。取り憑つかかれたように木々の間を彷徨さまよい、そのあげく、足腰が引き攣り、ヘタヘタと地面に座り込もうとした時、不意に目の前の林が開け、古びた神社が見えた。そして、ようやくのことで、その神社の境内に迷い出た。        
 奇妙な神社だった。このような神社が比叡の山腹にあろうとは思ってもみなかった。だが、それよりも林から脱け出た安堵で傍かたわらの石に腰を下ろし、辺りを見回すと、色褪いろあせた社殿の石段に一人の老人が胸を押さえて蹲うずくまっているのに気が付いた。ひどく苦しそうだった。             
 その老人に目が止まると、不思議なことに体が自然と動き、老人の傍かたわらへと駆け寄り、助け起こしていた。しばらくして老人は元気を取り戻し、私の介抱がよほど嬉しかったらしく、お礼にと私をしきりに自宅へ誘った。その誘いにのって八瀬の老人の屋敷へ赴いたのだが、それがそもそもの始まりだった。その老人が小野老人で、後から知ったことだが、その神社は早良親王さわらしんのうゆかりの祟道神社すどうじんじゃの分社だった。
          ※
 厭いとわしい……。あの時、小野老人の誘いにのらなければこんな目に遭わなくてすんだのに、悔やんでも悔やみきれない。あの屋敷で聞いたことを全て忘れたい。だが、こんな雨風の強い闇夜、比叡の山裾の薄暗い下宿部屋に一人でいると、忘れようにも忘れられなく、かえってまざまざと思い浮かんでくる。いったい、あれは、あの時の話は何だったのだろうか……。

 ◆ さて始めに…

 「皆様、この雨の中、遙々洛北・八瀬の地までよくおいでくださいました。いつもの会を開きますが、その前に、今日はお若い方をお連れいたしました。この地から少し下った三宅八幡で下宿なさっている学生さんです。会の決まりでお名前は申せませんが、お若いのに親切なお方で、つい先ほども、私、この方に助けられました。先月の五月五日は祟道すどう様の祭りでしたが、月こそ違い、今日も五日、親王様をお慰めいたそうと祟道様のご分社へ参ったのですが、その折り、急に胸が痛みだし、境内で蹲っておりましたところ、この方に助け起こされ、介抱されました。誠に親切なお方です。この方に助けられたのも親王様のお引き合わせ、何かのご縁かと思いまして、この会にお連れいたしました」

 山間を流れる高野川の傍らにある屋敷の奥座敷で、小野老人が、居座る十人余りの人たちに紹介した。晴れていれば座敷から庭越しに見えるはずの比叡の頂も降りしきる雨にかき消されていた。

 「この方についてのご心配はご無用かと思います。この方と、道々いろいろとお話をいたしましたが、お心ばえもしっかりなさっておられますし、お人柄も信頼できます。ですから、皆様のお話をお聞かせいたしましてもご心配はないと思います。私が厳選いたして、この会にお招きしました皆様方とご同様に会の秘密は守る方と存じます。そういうわけで、今回からこの方を会にお入れいたそうと思います…」

 小野老人は多少押し付けがましくその場の人たちに了解をとった。居座る人たちはいずれも社会的な地位や名声、財もありそうな紳士然とした人たちだった。だが、一様に顔に翳かげりがあり、小野老人の話に無表情に軽く頷くばかりで、ひたすら押し黙っていた。そして、その人たちの正面、座敷の床の間には、青竹に一反の布を着物の形に巻きつけた鉾ほこのようなものが立て掛けてあった。

 「ご承諾くださいましてありがとうございます。それではさっそくに会を始めますが、その前に今しばらくお時間をくださいませ。と申しますのも、今日初めてご参加いただいた方もおいでになるので、この会について少しご説明いたします。初めての方は早良親王さわらしんのう様をご存じでしょうか。桓武天皇かんむてんのうの弟君で英邁えいまいであるが故に兄の天皇様から妬そねまれ、いわれなき謀反むへんの罪を着せられ、怨みを抱いてお亡くなりになられました。その後、その怨みで祟たたりをなされ、平安の宮中で最も恐れられた御霊におなりになり、後に祟道天皇のお名前を朝廷からお与えになられた方でございます。その親王様の母君の高野新笠たかののにいがさ様がこの八瀬のご出身で、その地縁から八瀬の地に古くから住んでおります小野の一族が代々この地にて親王さまのお気持ちを鎮しずめてまいりました。私も小野の一族の血を引く者で、親王様のお気持ちを鎮めるとともに、親王様と同様にこの世に恨み辛みをもっておいでの方々のお気持ちを和らげ、安らかな日々をお送りになるようにと手助けをしてまいりました……」

 そこまで話すと老人は口を閉じ、居座る人たちをじろりと見据えた。屋根を打つ雨音と、山間に響く高野川のせせらぎ以外、座敷の中は重々しく静まりかえっていた。

 「人というものは年を重ねるごとに怨みと悔いが募る一方で、それが我が身を縛りつけ、生を終えてもそれから解き放されることもなく、この世の闇でいつまでも徘徊はいかいするものでございます。人とはまったく哀れなものでございます。他人には語れぬ秘めた怨みや悔いを親王様の拠り所である布鉾の前で吐き出し、親王様の大きな怨みの中に吸い上げていただき、我が身の恨み辛みを軽くいたしてもらいましょう。その思いで皆様をこの会にお招きいたしました。ですが、ご心配なく、親王様とか布鉾とか申しておりますが、今流行のいかがわしい新興宗教ではございません。親王様や布鉾は私の方の事情、言わば私側の都合でございまして皆様方にはまったく関わりのないことでございます。皆様は心の重荷になっていることをお話しになり、お気持ちを安らかになっていただければそれでよろしいのです。洗い浚いお話しになってもこの会の外に漏れることはございません。先ほど申しましたように、お互いが誰なのかは分かりませんし、私が厳選いたしました方々ですので、ここでお話しになったことは絶対に外部に漏れることもございません。どうぞご安心ください。前置きが長くなりました。それでは始めることにいたしましょう。では……」

 小野老人は話し終えて、部屋の片隅に座っている五十年輩の男を手招いた。

 「どうぞ、こちらでお話しくださいませ…」

 男は招きに応じて床の間の前に進み、布鉾に軽く一礼し、振り向いて座り直した。若い頃はさぞや美男だったろうと思われる整った顔立ちをしていたが、その顔の所々には荒んだ生活の跡が滲み出ていた。高価なスーツで身を包んではいたが、体からはプンプンと腐臭ふしゅうが漂っているようだった。
 その男は口を開いた。

Comment [1]

No.1

世話人さんからの情報で、一応、楽しみに心待ちしていた「連載」開始ですね。
しかし、著者さんがその昔、一時暮らしていた「八瀬」をもってくるとは……。
当時、少なくとも一度、その「庵」にお邪魔した際のことを思い出してしまいます。
このあと、魑魅魍魎・もののけにされて、登場させられそうな気がするなあ。著者なら、次々とやりかねない!お?コワ!

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