柿木畠は藩政時代からある町名で、まちの真ん中には、藩政期に築造された金沢城西外惣構堀が、現在も水を湛えており、飲食店を中心とした活気ある商店街のなかに、歴史的風情とうるおいを醸しだしています。火事が多かった藩政時代に、火除けとして植えた柿の木は、宝暦8年(1758年)当時のの金沢町絵図では、150歩ほど(約500平米)の畑として見ることができますが、宝暦9年(1759年)の大火災により、すべて消失してしまいました。
それ以後、旧柿木畠では、由緒ある柿の木の姿が見られなかったのですが、柿木畠復活を契機に、地元商店街は、「柿の木」を「まちの木」として、町内の各所に植え、まちの緑を演出しております。
ちなみに、火除け地に植えられた柿の木は、飛鳥時代の歌人で、万葉集で名高い「柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)」をもじり、「柿の木のもとでは火が止まる」と昔の人々は信じ、それに因んだといわれています。
(いいねっと金沢・金沢市HPから引用)
この柿木畠は金沢市役所の裏手の通りでその中程に「もっきりや」がある。
先日、ロサンゼルス在住で米国籍の知人夫婦が訪ねて来た。私が前の会社で最初に配属されたプロジェクトで、ずいぶんとお世話になった協力会社の技術者だ。いまでは80歳を超えている。10年ほど前から毎年日本に来た時には訪ねてくれる。最初の頃は金沢市内や能登などを案内していた。しかし、ここ二三年は案内するところもなくなったというか、気ままに行きたい所に行ってもらって、夜の会食でいろんな話題で盛り上がる。当初は気を使って料理屋などを使っていたが、居酒屋の方がいいということで、最近ではもっぱら居酒屋で一杯やっている。
今年も、木倉町の居酒屋で一杯やった。話の中で金沢辺りでジャズを歌っていた奥さんの友人が、何年か前に亡くなったという話を聞いた。
金沢でジャズと言えば、柿木畠の「もっきりや」だ。彼女を偲んで、「もっきりや」のマスターに彼女のことを聞いてみようと、木倉町の居酒屋を出てた。「もっきりや」では、東京からのサックスとギターの2ピースバンドのコンサートが始まったところだった。
たまたま東京から来たというピアニストが飛び入りで演奏したり、地元の歌手が歌ったりと、ジャムセッションが繰り広げられ、ノリノリのコンサートになった。
年が年だから、日本に来るのは最後になるかも知れないとの話だったが、別れる時には来年も訪問してくれそうな気配になっていた。
金森
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