その土地の文化が高く深いほど、その深みから奇妙なものが顔を出す時がある。文化が混ざり合い、混沌とした中で不意に形作られた異相の産物である。高岡は私にとってそんな雰囲気を宿す土地に思える。そんな思いを抱かせた二冊の本を紹介してみることにする。
高校生の頃、犀星の歌「夏の日に匹婦の腹にうまれけり」に出会い、花咲く野を歩いていて花の下から不意に蛇が顔を出したような衝撃を受けた。情細やかな詩人が自らの母を「匹婦」(いやしい女)と蔑んでいたからだった。後に犀星の出生の複雑さを知り、「匹婦」の言葉の裏に生母への強い思慕があるのに気付き、そこに犀星の秘密があるように感じた。その秘密を犀星の愛娘で彼の代表作「杏っ子」のモデルでもある室生朝子が『父犀星の秘密』(昭和55年毎日新聞社刊)として随筆にまとめた。
犀星は明治22年に加賀藩の元足軽頭小畠弥左衛門吉種の私生児として生まれ、生後間もなく、近くの雨宝院に預けられて住職の内妻ハツに育てられた。このハツは気性が荒く、彼は不遇な少年時代を送るが、血の繋がらない同じ養女の姉テエの優しさで慰められる。そのことは『幼年時代』に詳しく描かれている。その義姉が伏木の玉川町(現・伏木中央町)の料亭に嫁いだので、犀星は成人後に義姉を慕って何度も伏木玉川町を訪れている。その時のことを二つの短編に描いた。姉の料亭を訪れた時に知り合った二人の美しい半玉(芸妓)との淡い交流を繊細な筆遣いで描いた「美しき氷河」(大正9年「中央公論」4月号)と、病気の夫を気遣う姉の様子をうかがい、姉の料亭に長逗留した日々を描いた「あら磯」(大正14年「中央公論」7月号)である。伏木はこのように犀星にとって縁の深い土地であったが、室生朝子は犀星にとって最も縁の深い土地は高岡だと言う。それは彼の生母の関係からである。
犀星の生母は、新保千代子『室生犀星・ききがき抄』を根拠として、小畠家で当時女中をしていたハルが定説だった。当初、朝子もそれを信じていたが、弟の三回忌に金沢に帰った折りに犀星宛の古いハガキを手渡され、その時から事情が大きく変わる。そこから『父犀星の秘密』が書き始められる。随筆なのにミステリアルなルーツ探しのようで推理小説よりも面白く、胸が躍る。最初の「鯛の帯締め」の章で〈貴兄の母は山崎千賀〉のハガキ文面から朝子の祖母捜しが始まり、国会図書館の中島正之氏の援助を得て山崎千賀の足跡を追い、宮城県塩竃から再び金沢に戻り、千賀を犀星の生母と確信する。次の「高岡の遊亀戸」の章では、四年間、千賀が高岡瞽女町(現・川原町)の遊亀戸で芸妓に出ていたのを突き止め、高岡に赴き、千賀が借りた横田町の家で出産した可能性があるとし、この地が犀星の出生地と確信する。「世にも不思議な話」の章では、朝子が生母ハル説を唱えた新保千代子(当時・石川近代文学館長)と会い、ハル説の矛盾を問い詰め、確執に似た諍いを繰り返している。「夏ごとの蚊帳」の章では、犀星の養母ハツの隠された人柄を。「福王寺過去帳」の章では、養父真乗が富山県中老田村(富山市)の小川家の出だったと述べている。
犀星の高岡での出生は文学史を書きかえる一大事で、この説について歌人の米田憲三氏が緻密な調査と取材で研究を進めておられ、今後の研究成果が期待される。だが、千賀実母説には金沢の父吉種と高岡の千賀とでは距離が離れ過ぎているとの反論があり、父親においても犀星は吉種64歳の時の子で父親が老い過ぎているのではと疑問視する者もいたが、この二つを同時に解決する新説が最近発表された。犀星研究家の安宅夏夫氏が「人物研究」第17号で発表した生種〈吉種の子〉実父・千賀生母説である。生種は高岡の作道小学校、下久津呂小学校で校長を務めた人物で、当時の高岡の社交の場「遊亀戸〈勇木楼〉」で芸妓の千賀と馴染みになり、千賀が子を宿して犀星が生まれ、世間体をはばかった吉種が犀星を金沢へ引き取り、我が子とした。犀星は祖父を父としたということになる。現職の校長と芸妓との間に子が生まれたとなると、現在でも昔でもスキャンダラスなことで、もしそれが事実なら、犀星に「高岡生まれの、校長と芸妓の子」との新たな秘密が加わり、犀星の「ふるさと」とは何処かの謎が深まるばかりで今後の展開が待たれる。
さて、もう一つ奇妙なことがある。高岡市和田に西光寺という寺がある。明治32年頃、この寺に富山日報社主筆の佐藤紅緑(佐藤愛子、サトウ・ハチローの父)がしばしば宿泊した。当時、この地は日本派俳句の越中での結社・越友会の活動拠点で「和田俳人村」とも呼ばれていた。越友会の代表は山口花笠、会員で際立っていたのが沢田はぎだった。その句は国民新聞の高浜虚子や松根東洋城の選で最上級の讃辞を受け、名は中央にまで響いていた。その彼女の句が夫の代作したものとの噂が立ち、真偽がはっきりしないままに彼女は筆を折り、夫と共に俳壇から姿を消した。彗星の如く日本俳壇に現れ、早々と姿を消した。この幻の女流俳人に興味を抱いたのが吉屋信子だった。彼女はそれを「はぎ女事件」(「オール読物」昭和40年2月号・『私の見た美人たち』読売新聞社刊に収録)としてまとめた。その内容は次のようなものだった。
東洋城が評価したようにはぎ女の俳句の実力は相当高いものだったが、彼女の句が夫の代作だとの噂が立つと、それ以来、はぎ女と夫は国民新聞への投句を止めた。時を経て昭和27年に室積伹春が山口花笠から聞いた話として「夫の代作説」を「俳句研究」6月号に発表した。それ以来、それが事実として広く信じられるようになったが、昭和32年に俳人の池上不二子が疑問を抱き、高岡の沢田家を訪れ、健在だったはぎ女に直接尋ねたところ、室積伹春の発表には不審な点があり、新聞への投句を止めたのは夫と義母の厳命に因るもので句は自作のものだとの言を得て、それを「俳句研究」10月号に発表した。それが地元紙で大きく取り上げられたことから、「代作説」の真相に関わって山口花笠説の支持者との間に論争が再燃した。その後、はぎ女の句集も出版され、初めて彼女は東洋城の家へ訪れもしたが、謎はそのままで現在に至っているとの歯切れの悪い結びで終わっている。
この歯切れの悪さは何だろう。出筆する際、生存している関係者への配慮から躊躇いが生じたのかもしれないし、厳密に究明すると明治大正期の女性の社会的立場や女性俳人の俳壇での立場などにも触れなければならなく、その際に様々な差障りが生じると危惧したのかもしれない。それにしても謎が深まるばかりである。はぎ女に関しては福田俳句同好会編『俳人はぎ女』(平成17年)の好著もあり、はぎ女の句を自ら読み味わって、そこから、銘々の感性で、この事件の真偽に答えを出して欲しい。
紙数の都合で二件しか謎めいたものを紹介できなかったが、高岡の文学の奥底にはまだまだミステリアスなものが潜んでいる。豊かな文化が産み出した異相なものをその土地に住む人が探り当て解き明かすのも文学作品を読むうえでの楽しみになることだろう。
吉屋信子『女流俳人・はぎ女事件』
立野幸雄
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