この前、太田くんに会ったときに、「越前と越中の間になぜ「越」が付かない加賀があるのか」との宿題をもらった。
令制国(りょうせいこく)の一つに越国(こしのくに)がある。越国は現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域だ。
では令制国は何時出来たのか。話は養老4年(720年)に完成した日本書紀に遡る。
ハッキリとは分かっていなが、『日本書紀』に信をおけば、大化の改新直後、少なくとも藤原京への遷都以前にはある程度の令制国が成立していたようである。
また、令制国以前は土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。令制国は、中央から派遣された国司が治める国である。
当時は高志(こし)国と書かれ、越国は8世紀以降の書き方である。後に分割されて越後国・越中国・能登国・加賀国・越前国になり、越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)などの地方名で呼ばれた。蛇足だが、富山に高志会館、高志の国文学館というのがあるが、高志国との関連から名付けられているのかも知れない。
ウィキペディアによれば
加賀国は、令制国の中で最後に建てられた国である。その建国への提案は越前守の紀末成による。末成は、加賀郡が国府から遠く往還に不便で、郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散し、国司の巡検も難しいといったことを理由にあげた。太政官はこれを受けて弘仁14年 (823年) 2月に、越前の二郡を割いて加賀国を建て、中国にすることを奏した。3月1日に太政官は符を下して加賀国を作り、中国と定めた。同年6月4日に、江沼郡の北部を能美郡とし、加賀郡の南部を石川郡とすることを、加賀守を兼任した紀末成が言上し、これによって四郡になった。天長2年(825年)1月10日に、課丁と田の数が多いという理由で、加賀国は上国に変更になった。
注: 紀 末成(き の すえなり、天応元年(781年) - 天長2年12月4日(826年1月15日))は、平安時代前期の貴族。大納言・紀古佐美の九男。子に安麻呂・安根がいる。官位は従四位上・越前守、贈正四位上。
とのことである。
「加賀はもともとは越前だったが広すぎで統治しずらいので、平安時代に越前を分割して加賀にした。」というのが、「越前と越中の間になぜ「越」が付かない加賀があるのか」の答えということになる。ちなみに「越」の呼び方が、いつの頃から「こし」から「えつ」に変わったかは調べていない。江戸時代からのような気がしている。
金森
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