その時、道場の入口の戸が急に開きました。振り返ると洋子が戸口に立っていました。私の後を付けてきたようでした。もう土井に関わっている暇などなくなりました。
「土井、ちょっと待ってくれ。急用ができた。今、相談しなければならないことなのか…」
私の拒むような言い方に土井は怯みました。
「いえ、今でなくても……」
「それなら明日にしよう。明日相談にのるから。いいな、今日は急ぐから、また明日な」
土井との話を打ち切り、私は慌てて洋子の所へ歩み寄りました。
「どうしたの…」
どぎまぎしながら洋子に尋ねました。洋子は思い詰めたような顔をしていました。濡れた唇がいつもに増して赤く煌めいていました。
「話したいことがあるの…」
それだけ言うと、口を噤み、あの底光のする目でジロリと私を見るのです。厭な予感がしました。
「分かった。用具小屋へ行こう」
私はレスリング道場を出て横の用具小屋に洋子と連れ立って入りました。
「どうしたの…」「先生、私……」
洋子は言葉に詰まると、いきなり制服を脱ぎました。
「昨日の夜も眠れなかったの。先生、もう我慢できない。先生、私を抱いて、強く抱いて、思い切り抱きしめて、ねぇ、お願い……」
言うやいなや、体を私にぶつけてきました。
「待て、ちょっと待て…」
驚きのあまり、私は、抱き付こうとする洋子を両手で押し止め、慌てて数歩退りました。
「駄目だ。君の気持ちはよく分かるが、こんな所では駄目だ。いいか、今は駄目なんだ。もう少し待ってくれ」
自分でも何を言っているのか分かりませんでした。洋子の突飛な行動に動転して支離滅裂なことを口走っていました。その時は洋子の白い胸の膨らみに目を奪われながらも、何か恐ろしい罠にでも嵌まったかのように思い、一刻も早くこの場から逃げ出したい衝動に駆られていました。小心者の臆病さが露骨に現れ出たのです。すると、洋子は私を一瞥して、やけにはっきりと言い切りました。
「分かったわ。今の私の体では駄目なのね。私、待つわ。そして、もっと素晴らしい体になるわ。そうなったら、先生、必ず私を抱いてね」
何がどう分かったのか、洋子はそう言うと、制服を素早く着込み、戸口から飛び出ていきました。その姿を見ながら私は傍らの椅子に崩れるように座り、大きな溜め息をつきました。やり過ごしたという安堵感が込み上げてきました。また、その一方で、洋子の白い上半身にやたらと未練が募り、美味しい餌をみすみす取り逃がしたような気もして残念で
たまりませんでした。
しばらくして私は熱病に浮かされたような状態で用具小屋を出ました。すると、そこで道場から出てきた土井にバッタリと出会いました。その時、土井と目が合いました。彼の目には私への蔑みが浮んでいるように見えました。きっと私の心を見抜いていたに違いありません。ですが、土井は私に黙礼して足早に立ち去りました。その夜、私は眠れません
でした。眠りに陥ろうとすると、土井の蔑むような目と、洋子の白い胸の膨らみが浮かび上がり、自己嫌悪と淫らなときめきとでまんじりともできませんでした。
翌朝、眠い眼を擦りながら職員室に入ると、室内が騒めいていました。事件が起きたようでした。胸騒ぎがして傍らの職員に尋ねると、私の学年の生徒の一人が鉄道自殺をしたとのことでした。驚きました。そして、直ぐに頭に浮んだのが洋子のことでした。
《自殺した。もしかしたら洋子が…》
ですが、自殺したのは洋子ではありませんでした。そして、自殺した生徒の名を聞いて更に驚きました。体から力が抜け、思わず椅子に崩れ込みました。
《しまった。あの時、道場で……》
死んだのは土井でした。その時、ふと作文を思い出しました。洋子の書いた日誌を机上に投げ付けた時、何気なく手に取った作文のことです。あの作文には自殺のことが書いてありました。書いたのは土井でした。
《しまった。あの時も土井は俺に訴えていたのだ。助けを求めていたのだ。それなのに俺は洋子に気をとられて、作文と道場での二度にわたっての土井の訴えを見過ごしたのだ。そのあげくが、彼をむざむざ死に追いやったのだ…》
体がブルブルと震えました。洋子にうつつを抜かし、助けを求めてきた生徒を見殺しにしてしまったのです。悔やんでも悔やみきれません。眠れぬ夜が続くようになりました。時たま眠ると、夢に土井が現われ、険しい目で私を睨みつけます。それは小屋の前で会った時の土井の目でした。そして、その背後に、裸同然の洋子が発情期の猫さながらの目で
私を見つめているのです。罪の意識で身が苛まれ、蕩けるような欲情で身が火照ります。更に、その欲情で罪の意識に拍車がかかり、一晩中、うなされるのです。
それ以来、生徒に接するのが怖くなりました。生徒が壊れやすいガラス細工のように思え、私の何気ない言葉の一つで容易く壊れ、直ぐにでも死を選ぶような、そんな、あまりにも脆く危なっかしいもののように思えてきたのです。その一方で、洋子は前よりも増して日記に淫らな言葉を書き連ね、人目も憚らずに私に纏わり付いてくるようになりました。そんな洋子のそぶりから、それまで子どもだと思っていた周りの女子生徒に必要以上に女を意識し、以前のように気安く話しかけれなくなりました。とにかく教壇に立つと、そこには壊れやすい華奢なガラス細工が危なげに立ち並んでいて、僅かでも触れると忽ち粉微塵に砕け散るように思え、また、更に悪いことに、ガラス越しに女子生徒の制服の中身の
淫らな色も透けて見えてくるようで、それらが私を破滅へと誘うように思えるのです。取り分け洋子のガラス越しの中身は色濃く淫らで、いったんその誘いにのると無限の底無し沼に引きずり込まれ、確実に身の破滅が訪れるような気がするのです。ですが、おぞましいとは思いながらも、私はしだいに洋子の体に惹かれていきました。洋子の若い肉体の隅
々が気にかかり、また、そのつど、土井の咎めるような目も思い浮かんできて、悔いと欲情とが渦巻き、発狂しそうなほどでした。そして、学校へ行くのが厭で厭で堪らなくなってきました。
そんな時、故郷から父の死の報せが届きました。幼い頃から私は父に家業の酒造りを継ぐようにと言われ続けてきましたが、その言葉に反発し、京都で教師をしてきたのですが、その父が死んで頑なな処が消え、身の周りのことが、洋子や土井のことも含めてですが、全てが煩わしく厭わしくなってきました。そして、父の葬式の為に故郷へ帰る電車の中で教師を辞めてそのまま故郷に住むことを思い立ったのです。若い時には後足で砂をかけるようにして故郷を捨てたのですが、その頃には私を癒してくれるのは故郷しかないように思えたのです。その時、ただ一つの慰めになったのは、京都に残ると思っていた妻の妙子が一緒に付いてきてくれたことでした。
故郷に帰ってから、しばらくの間、家業の酒造りを手伝いながらブラブラとしていましたが、叔父が県庁で総務部長だったこともあり、そのつてで地元の高校に再び勤めることになりました。京都での事件以来、教職には嫌気がさしていたのですが、新たな勤め先を探しても、つぶしのきかない元教員では雇ってくれる所もなく、また、家業の酒造りも弟
が父の生前から受け継いで細々とやっているのでいつまでも甘えているわけにもいかず、それに故郷に帰ってから分かったのですが、妙子が妊娠していたのです。失意中でしたのでこれほど嬉しいことはありませんでした。ですから、この子の為にも職種にこだわっている暇はなく、再び教職に就いたのです。
そして、再び教職に就くにあたって決心したのは、生徒にどう批判されようが、絶対に生徒と深く関わらないようにしよう、それに、生徒に絶対に甘い顔などを見せないティーチングマシーンになりきろうということでした。もう二度と京都でのような事を繰り返したくはなかったからです。その決心のとおり、教職に就いてからは生徒との交流をできるだけ避け、学校運営に携わる仕事ばかりをやってきました。生徒から見れば、私はまったく面白みのない退屈な教師でしたでしょうが、校長や教頭などの管理職から見ると学校運営に役立つ者として重宝だったでしょう。それと県庁の叔父のおかげで、他府県からの移籍教師のわりには早く出世して、県でも若い教頭の一人となったのです。ともかく教職に
再び就いてからは土井や洋子のことを思い出さないようにして、教育課程や授業運営などの無味乾燥な仕事ばかりに熱中してきました。そして、早々と教頭になり、次期校長にとの話も出てきたのです。そんな時、突然、洋子が私の前に姿を現わしたのです。
洋子は実に変な女でした。故郷に戻ってからも彼女から何度となく手紙がきました。手紙には京都から黙って去ったことを詰るような言葉が書き連ねてありましたが、私は一度も返事を書きませんでした。次に、どこで調べたものか、幾度となく家に電話がかかるようになりました。電話口でも洋子は私を詰りました。そのしつこさに辟易して私は妙子に
「京都の学校での変な女の子に付き纏われて困っている」
と打ち明け、電話の取次も断ってもらいまました。ある時、あまりのしつこさに妙子が電話口で声を荒げて洋子を激しく非難してから、洋子からの電話や手紙もめっきりと減り、二年ぐらい経って久しぶりに家に届いた手紙に
「先生によく似た人と間もなく結ばれる。今は幸せ」
と書いあったのを最後に音信がなくなりました。
その手紙を見て私は実のところホッとしました。手紙や電話に飽き足らなくなった洋子が不意に私を訪ねてくるのではとビクビクしていたからです。ですが、洋子に好きな男ができ、その男と結ばれるなら、私のことなど、すっかり忘れるだろうと思ったからです。女というものは、私ども男とは違い、今が幸せなら昔の事などは全て忘れてしまえるし、将来のことなども深く考えないですましてしまうところがあるようです。今が一番と言うか、情が深くて目の前のことにしか興味が持てないとでも言いましょうか、そこが昔の事を忘れられずにイジイジしている未練がましい男とは違うようです。そんなわけで、男ができたという洋子の手紙を読んで私はホッとしました。案の定、それからは洋子から手紙も電話もこなくなりました。しかし、安堵はしたものの、私に抱いてくれと言った女が別の男に毎晩抱かれているのかと思うと、少し惜しいような変な気もして我ながら自分の未練がましさに呆れておりました。
それから二十年近くも経ちました。その間も時折り洋子や土井を思い出しましたが、月日が経つにつれ、自分のことでありながら他人事のような、朧な夢の中の出来事のように思えてきました。そんな時でした。洋子から突然電話がかかってきたのは……。
最初、その電話の主が誰なのか分かりませんでした。しばらくして洋子だと分かると、寝耳に水の驚きがおぞましさに変わり、顔が引き攣り、心臓が張り裂けそうになりました。しかし、洋子は私の気持ちなどには関わりなく実によく喋りました。その話を私は平静さを装いながら辛抱強く聞きました。洋子を少しでも刺激したら、どのような行動にでるか分かったものではありません。ですが、聞けば聞くほど、洋子の話はおかしなものでした。洋子はやはりどこか変なのです。話の内容は洋子が今まで関係してきた男との事ばかりでした。多くの男と関係してきたようで、そのどの男ともうまくいかず、つい先日にも同棲していた男に棄てられ、どん底状態だと言うのです。そして、最後に「昔はよかった。若い頃が懐かしい。先生に抱かれていた頃が一番よかった」と言い出すのです。その言葉を聞いて驚きました。私は洋子を一度も抱いたことはありません。終いには腹が立ってきました。ですが、強く言い返すと暴れだすのではと思い、やんわりと否定しながら宥めるようにして電話を切りました。受話器を下ろすと、あまりの忌ま忌ましさで吐き気がしました。しかし、それだけでは済みませんでした。それから三日後に学校に分厚い手紙がきたのです。
その手紙もおかしなものでした。今まで関係してきた男たちの悪口をさんざんに書いた後に「男はもう懲り懲りだ。疲れた。死にたくなった」と書いて、「だが、若い頃はよかった」として学生時代の私との事を書いているのです。しかし、その内容がおかしいのです。例えば「?何も知らない中学生の私を先生は宿直室で無理やり抱いて女にした。だが、その時は痛いだけで何も感じなかったが、その後、高校の用具小屋で何度も先生に抱かれ、それで初めて女の喜びが分かった。先生によって私は女になり、先生に抱かれていた時が今までに一番幸せだった?」と書いてあるのです。洋子は私を中学校でレイプした体育教師と混同し、高校でも私に引き続き抱かれていたと思い込んでいるのです。その上、それをどうも気持ちの上で美化しているらしいのです。錯綜した記憶を自分なりに都合のよいように作り直して思い込んでいるようなのです。更に「私を女にした先生にもう一度抱かれ、その後で死にたい。疲れてしまった」などとも書いているのです。とんでもないことです。確かに洋子を抱きたいと思ったことはありましたが、身に覚えのないことで深想いをされ、校長にとの声が上がっているこの時期に訪ねてこられては迷惑千万です。今までの努力が無駄になってしまいます。
洋子は今まで関わってきた男の毒が頭にまわり、狂ったに違いありません。幾度も男で悲惨な目にあって、それを慰めようと、男との好い思い出を探しているうちに、過去の幾つかの曖昧な記憶が繋ぎ合わさって私とのありもしない関係を作り上げたのでしょう。可哀相と言えば可哀相なのですが、それを私との事にしてもらっては迷惑至極です。迷惑を通り越して腹が立ってきました。そんな洋子の思い込みを正さねばと、手紙の住所を確認しましたが、住所は書いてありませんし、電話番号も分かりません。ですが、手紙の消印を見て驚きました。消印は私の住んでいる市の隣の市のものなのです。一瞬、ゾクッとしました。まだ京都にいるものとばかり思っていた洋子が、案外、私の近くにいたのです。こんな近くならば、いつ何時、不意に私の職場や家に訪ねてくるかしれたものではありません。あの奇っ怪な妄想を抱いてです。ますますゾクゾクとしてきました。
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