…そうでした。あれは小学六年の春のことでした。塾の帰りに友だちの家に寄り、しばらく話し込んだ後、何百本もの桜の花が咲き乱れている堤の上を一人で歩いたことがありました。平日の深夜のせいか、堤の上には人影がなく、夜桜見物の赤いぼんぼりだけが、満開の桜の花を闇空に仄赤く浮かび上がらせていました。その美しさといったら、この世のものとは思えないほどでした。
ですが、しばらく歩いていると、奇妙なことに気付きました。風がないにもかかわらず、周りの桜の花が小刻みに揺れているのです。不思議に思い、目を凝らして辺りを見回すと、何万何億という桜の花びらが、枝に群がる無数の白い蛾の翅ようにヒラヒラと蠢いているのです。その時です。不意に強い視線を感じました。何万何億という目が私を凝視しているような気配に囚われたのです。と、背筋に冷たいものが走り、体がゾクゾクとしました。そして、気が付いたのです。桜の花の一つ一つが意志を持った生き物のように私を窺っていたのです。
そうなんです。桜の花の一つ一つが取り澄ました昼の顔をかなぐり捨てて樹の下を通りかかる獲物を襲い、その精気を吸い取って更に美しくなろうと、露骨に悪意を含んだ目で私を睨み付けていたのです。不気味なほどに美しく、そして言葉で言い尽くせぬほどのおぞましさが私に迫ってきたのです。私は一目散にその場から駆けだしました。
美しいものには邪悪なものが潜んでいるに違いありません。美しいものの裏側にはおぞましいものがあるに違いありません。それ以来、私は美しいものに出会ったら、また、強く惹かれるものに出会ったら、否応なくそれを踏み躙るようにしてきました。美しいものには騙されません。特に美しい女には邪悪なものが潜んでいるに違いありません。
ですから、その奥に潜んでいる邪悪なものが顔を出さないうちに先制攻撃をし、その体をなぶり尽くして女が官能の酔いから冷め切らぬうちに、つまり、邪悪なものが正体を現さないうちに棄てることにして
いたのです。自分を守るために心惹かれる美しいものをとことん汚して棄ててきたのです。
また、あれは大学三年の春のことでした。先ほど申したように、私は上高野で前田と共に下宿しておりました。あの夜、月の綺麗なあの夜、私は宝が池の馴染みの女の部屋で遊んだ後、とぼとぼと池畔の小道を歩いておりました。宝が池は現在でこそ国際会議場や学校、住宅などが建ち並び、賑やかですが、当時、池の周りには何一つなく、池沿いの小道の傍らに古びた桜の林が疎らに立ち並んでいるだけの殺風景な所でした。そんな池畔の小道を歩いていたのです。月の光を浴びながら、今しがた味わった滑らかな女の肌を掌に蘇らせながら、傍らに桜の花の咲く夜道を浮かれ気分で歩いておりました。夜中も二時を過ぎていたと思います。
その時でした。数歩先の桜の樹の下で誰かが立っているのに気が付いたのです。改めて見直すと、月の光を浴びた桜の花の下にボンヤリと白く、着物姿の髪の長い女が顔を伏せて立っているのです。その姿を確かめた瞬間、私の背筋を冷たいものが走りました。つい先日、池のこの辺りで自殺と思われる若い女の水死体が見つかったばかりでした。そのことを思い出すと体がブルブルと震えだしました。ですが、引っ返そうにも恐怖のあまり体が強ばって動きが取れません。
月の光が仄かに桜の花に降り注ぎ、その花の下に長い髪の女が弱々しげに佇んでいるのです。私は息を殺してその女を見つめていました。
その時、ふと女はどんな顔つきをしているのだろうかと興味がわきました。すると、私の思いに応じるかのように、突然、女は顔を上げて私をまじまじと見つめだしたのです。その美しいこと、背筋がゾクゾ
クするほどに美しい女なのです。桜の花びらが女の白い顔に舞い落ち、長い黒髪が池から吹く風にそよいで、この世のものとは思えぬほどの妖艶な美しさが満ち溢れていました。と、どうしたことでしょうか。
その女は私を見てニコリと笑ったのです。その笑いは言葉では表わせぬほどに凄惨せいさんで艶なまめかしいもので、私は思わずその場に立ち竦すくみました。すると、その女は再び媚こびを含んだ目で私を見てニヤリと笑ったのです。その笑いで顔が崩れ、最高の美しいものが、最悪の醜いものに豹変したようで、その瞬間、私は生身の心臓を引き裂かれたような恐怖に囚われました。いかに女好きの私といえど、手を出せるような類の女ではありません。この世のものではございません。化け物です。
すると、これまたどうしたことでしょう。頭上の桜の花びらが一斉に騒ざわめきだしたのです。ガサガサ、ゴソゴソと私を詰るように騒めきだしたのです。
その時になって、私の金縛りにあっていた体がようやく動きだし、私はその場から無我夢中で逃げだしました。どれほど駆けたでしょうか。息が切れ、立ち止まって何気なく後を振り返りますと、なんとあの白い着物の女が髪を振り乱し、美しい顔に妖しげな笑いを浮かべて私の背後に迫ってきているのです。
「お願い。私も連れて行って…」
その若い女のか細い声が、私の耳の奥底まで、はっきりと聞こえてきました。私は再び駆けだしました。ですが、駆けても駆けても、その女は気味悪い笑みを浮かべて私を追いかけてくるのです。夢なら一刻も早く覚めたい悪夢です。
どれくらい走り回ったでしょうか。明け方近くになって、やっとのことで女を振り切り、へとへとになって下宿に辿り着きました。そして、女を誘い込んで寝ていた前田を叩き起こして、事の次第を話しましたが、前田も女も笑い転げるばかりで真剣に聞いてはくれません。
挙げ句には「女欲しさの欲求不満で幻でも見たんだろう。そんなに女が欲しいなら、こいつを貸すから好きにしろよ」と同衾どうきんしていた裸の女を寝床から押し出すのです。乳房と尻のやたらと大きな、男好きする顔付きの女で、その女も私との交渉を満更嫌でもなさそうで、私も食指は動いたのですが、気味の悪い女に追われた後のことでもあり、さすがにヘラヘラと女を抱く気もしなく憮然ぶぜんとして前田の部屋から出ました。その頃にはすっかり夜も明けていました。
自分の部屋に入ると、性懲りもなく前田の部屋で会った女に未練が強まってきたのですが、いつもの習慣でラジオを入れると、ニュースの時間らしく、そのロ―カルニュ―スを聞いていると、昨晩、岩倉の精神病院から脱け出した若い女患者が、今朝早くに宝が池付近の山林で警察に保護されたと言っていました。あの女です。あの女に違いありません。
月の光が皓々こうこうと降り注ぐ、満開の桜の美しい夜に、私は、一晩中、気違い女に追い回されていたのです。滑稽なようですが、あんなに恐い思いをしたことは今までにありません。ですから、満開の桜を見ると体中に戦慄が走るのです。そして、その戦慄に包まれながら女を抱くと強烈な刺激が体を貫き、女との情事が狂おしいほどに高まってくるのです。
しかし、そんな情事も昔のことになってしまいました。年を取ったせいでしょうか。最近はめっきりと女と遊ぶことも減ってしまいました。また、女の体に触れてもさほど高ぶらなくなりました。ですが、前田の葬式で彩子を見た時、久しぶりに体の奥深い処に熱い疼きを覚えたのです。ブスブスと体の奥底でドロドロしたものが煮えたぎってきたのです。
…おやおや、話がだいぶん逸それてしまいました。申し訳ございません。そうでした。彩子との話の続きでしたね。
前田の葬式を終え、いったんは家に帰って着替えをしたものの、彩子と会う時間までにはまだ間があり、家でソワソワと時計ばかりを見ておりました。そして、ようやくその時間も迫ったので、いち早く約束の場所へと車を走らせました。
車から降りると、昔と変わらぬ桜林が目の前に広がっていました。
ここを訪れるのも久しぶりのことでした。朧月おぼろづきが桜の林を照らし、むせ返るほどの花の匂いが辺り一面に立ちこめていました。それは、情事の後の、女の蒸むれた肌から発するような艶かしくて毒々しく、そして、心蕩こころとろかすような甘い匂いに似ていました。
私は徐おもむろに林の中に入りました。すると、林の奥の樹陰から急に人影が現われ、私の名を呼ぶのです。私の名を呼ぶ度に、頭上の桜の花がザワザワと音を立て、その気味悪さに思わず車に引き返そうとしました。ですが、月の光がその人影を照らすと、それが彩子だと分かりました。彩子が、林の奥の大きな樹の下で、私の名を呼びながら手招きをしていたのです。その艶めかしい姿といったら、もう言葉では言い表されません。私は、その瞬間、気味悪さも吹き飛び、夢見心地で満開の桜の林の中へと踏み込みました。林を進むにつれ、昔と変わらぬ熱い戦慄が蘇り、それとともに激しい欲情もムラムラと込み上げてきました。一刻も早く彩子の肌に触れ、貪むさぼりたかったのです。
ですが、彩子の傍らに寄ると、奇妙なことに気が付きました。彩子はまだ喪服を着ているのです。
「もう来ていたの。着替えていないけど、前田とはよほど親しかったの…」
私はわざと明るく尋ねました。
「いいえ……」
「それなら、どうして前田の葬式に出たの…」
生温い沈黙がしばらく続きました。
「だって葬式に出れば先生に必ず会えると思って…。私、長い間、入院していて、退院したばかりなの…。そんなことより、今宵、どうしてでも先生にここで会いたかったの…」
「えっ、私に…」
不思議に思ったのですが、そんなことよりも彩子の襟首えりくびの白さに我慢できなく、彩子を思い切り抱きすくめようとしました。しかし、彩子は私の両腕から素早く逃れ、傍らの桜の太い幹の陰に身を隠しました。ここまで追い詰めた美味しい獲物を逃すわけにはいきません。私も彩子の後を追って幹の後に回りました。すると、樹の根元の盛り上がった土の傍ら、まるで土饅頭どまんじゅうのような所で、彩子は身を横たえ、喪服の胸をはだけて私を待っているのです。その時、ようやく思い出しました。その樹の陰は、昔、彩子をよく抱いた所でした。
「この場所を覚えていたんだね…」
そのことでますます腰の奥が熱く疼うずいてきました。もう我慢できなくなり、彩子の体に伸し掛かり、はだけた胸に唇を這わせました。思ったとおりのしっとりと滑らかな肌でした。股の間がドロドロと熱く憤いきどおってきました。たまりません。あわや破裂しそうになった時、不意に線香の匂いが鼻先に漂ってきました。その刹那せつな、急に股の高ぶりが萎縮しました。そして、何気なく目を上げると、今まで気付きませんでしたが、火の点いた幾本もの線香が盛り土の上に立っていました。
その時です。突然、彩子が甲高く笑い、勢いよく私をはねのけると、盛り土をがむしゃらに掘りはじめたのです。
「幸ちゃん。お父さんがやっと誕生日に来てくれたわ。本当によかったわね。幸ちゃん、もう直ぐよ…」
彩子は、土の中に手を入れると、干涸ひからびた小さな黒い物を私の目の前に突き出しました。
「先生、幸ちゃんよ。先生と私の子。私がここで堕ろし、埋めたの。先生、さあ抱いてやってちょうだい。可愛いでしょう。先生の子よ。大きくなったでしょう…」
恐怖が全身を貫きました。
《狂っている。何てことだ、この女は狂っている。狂っているのだ。桜はやっぱり……》
私は彩子を突き飛ばし、大声を上げてその場から逃げだしました。
無我夢中で走りました。ですが、長い間の不摂生のせいで忽たちまちに息が切れ、立ち止まって、ふと振り返ると、直ぐ背後に妖しげな笑いを浮かべた彩子が手に黒い物を握り締めて追いかけてくるのです。
「待って、先生。ねぇ、待って、この子も一緒に連れて行って…」
切々とした、そして恨みに満ちた声が執拗に追いかけてきました。
私は再び逃げだしました。無我夢中で走りました。宝が池の、あの夜と同じでした。気違い女に追われて私はひたすら逃げました。頭上の桜の花びら一つ一つが、これまで弄もてあそんで棄てた女の恨みで真っ赤に染まり、ザワザワと呪咀じゅその言葉を私に浴びせかけて責め苛さいなむのです。おぞましい桜花の夜です。その時、突然、胸がキリキリと痛みだしました。幾百幾千の錐きりが一度に心臓に突き刺さるような激痛でした。痛みに耐えかねて私はその場に倒れました。すると、辺りが急に静まりかえり、真っ暗になりました。漆黒の闇でした。体が冷え込んできました。と、その闇の中に誰かが顔を覗かせました。その者は愉快そうに笑っているのです。何と前田です。前田がニヤニヤと笑いながらゆっくりと私に近付いてきました…。
※
その男はそこまで話すと急に口を噤つぐんだ。肩を落とし、うな垂れて茫然ぼうぜんと膝元の畳を見つめるばかりで微動だにしなかった。
「ありがとうございました。最初のお話はこれくらいにいたしましょう。胸のつかえはお消えになられたでしょうか。いくら話しても消えぬ悔いもあるものですが…」
小野老人は男の様子を窺うかがいながら言うと、今度は聞き入る客に向かって話しだした。
「皆様もお疲れになられたでしょう。次の話に入ります前にしばらく休憩を取ることにいたします。部屋の後にお茶やお酒を用意いたしてあります。ご自由にお召し上がりください。それでは十分後に…」
小野老人は立ち上がると、黙然と座りこんでいる男を促して隣の部屋へと連れていった。
◇
「それでは皆様、お二人目を迎えることにいたします。どうぞ、ご遠慮なさらず、前へおいでくださいませ」
小野老人の誘いで部屋の片隅に座っていた五十歳前半の眼鏡をかけた男が怖ず怖ずと前に出てきた。煮染めたような濃いグレーの背広に焦茶こげちゃのネクタイをした、厳つい体つきの謹厳実直きんげんじっちょくそうな男だった。男は床の間の布鉾に軽く一礼すると、半白の頭髪を掻き上げながら振り向いた。
雨はしとしとと降り止まず 部屋は一段と暗さを増していた。
その男は口を開いた。
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