少し前に、父に舞鶴から一通の葉書が届いた。父は戦時中、舞鶴を母港とする病院艦に乗って世界の海を回っていたようである。その当時の戦友からであり、父の近況を心配した内容だった。戦後60年、戦友達が一人、また一人と、この世を去っていく寂しさも伝わってきた。
今から20年程前だったろうか、父は、全国に散らばっている戦友達と宇奈月温泉で同期会をやって、その時の世話役をやっていたのを思い出す。今年の2月に逝った父は、折に触れ、あの時の話をしていた。10年前に亡くなった母と一緒に、下見などをしながら楽しそうに汗をかいていた。そんなこともあり、思い出もひとしおだったのだろうと思う。
今年の同期会は、みんなにどんな思い出を残したのだろうか。私自身、前回の同期会と少し違った思いが残っている。父を亡くした年だからかも知れない。あるいは、世の中の一線から去る年になってきたからかも知れない。
(なお、葉書を頂いた父の戦友には、父が2月に他界したことをお知らせしていなかった非礼をお詫びした手紙をお送りした。)
蛇足
第二次大戦時の日本海軍の調理実習テキストを思い出したのでご紹介しておきます。「舞鶴要港部兵食献立調理講習記録」途中で作るのを挫折してしまっていますが・・・
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No.1勝巳さん
今日でアメリカにおける同時多発テロによるWorld Trade Center崩壊から5年目。色んなメモリアル行事が予定されているようです。2001年9月11日。ちょうど日本から技術者が来ていて、朝5時に家を出て、空港で出発便の時間待ちをしていたことを、昨日のように思い出します。周りにいる人に何があったのかを聞いてみても、セスナが間違ってWorld Trade Centerにぶつかったとか、アメリカ国内での情報が錯綜する中、出張者の奥さんから私の携帯に電話があり、New YorkのWorld Trade Centerに航空機が突っ込んでえらいことになっている、飛行機での出張は控えて欲しいという内容だった。東海岸と私がいた西海岸との時差が3時間あり、アメリカ国内のメディアの情報もいろいろだったようだ。帰国が決まり、New Yorkへ行って、すっかり片付けられた跡地を見てきたが、跡地からも大惨事を伺い知ることができた。あれから早や5年。未だにテロというものが撲滅されていない現状に、憂いを覚えるのは、年のせいだろうか?
この投稿の戦友からの葉書に何故か共鳴を覚えるとともに、今はまだ、後方支援でインド洋に派遣されている息子の事を思い出している。
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