環水公園を散歩して、駐車場に戻ろうとした時、富山県美術館が目に入った。美術館が新しくなってから、まだ行ったことがなかった。
富山県美術館は
立山連峰を望む「富岩(ふがん)運河環水公園」のすぐそばに、2017年8月に移転オープンした「富山県美術館」。前身の「富山県立近代美術館」で有していた国内屈指の20世紀美術作品の展示はそのままに、「アートとデザインをつなぐ場」を目指して、楽しくてわくわくできるみんなの美術館へと生まれ変わりました。(旅ぐるたびHPから引用)
環水公園を散歩して、駐車場に戻ろうとした時、富山県美術館が目に入った。美術館が新しくなってから、まだ行ったことがなかった。
富山県美術館は
立山連峰を望む「富岩(ふがん)運河環水公園」のすぐそばに、2017年8月に移転オープンした「富山県美術館」。前身の「富山県立近代美術館」で有していた国内屈指の20世紀美術作品の展示はそのままに、「アートとデザインをつなぐ場」を目指して、楽しくてわくわくできるみんなの美術館へと生まれ変わりました。(旅ぐるたびHPから引用)
長岡御廟を出て神通川の上流方向に走る。進行方向五福辺り左手に「富山県水墨美術館」がある。
休日ということもあって、駐車場は満車だったが、幸いにも一台の車が駐車場を出るところだった。
入館しても、展示室に入らなければ、館内は無料で見て回れる。展示品はいずれ見学しようと思ってはいるのだが、未だ鑑賞していない。美術館の前庭を歩いたり、館内のベンチに座って庭越しに立山連峰を眺めたりしている。そういえば、庭にある桜がそろそろ見頃ではないだろうか。
2.設置目的
日本特有の風土と永い伝統の中ではぐくまれた水墨画などの特色のある日本文化の美を広く紹介し、県民の教養の向上と文化の発展に寄与する。
3.基本的理念・性格
(1)日本文化の美を具現化する美術館
水墨画などを鑑賞する「場」とされてきた床の間など日本家屋の特徴的な生活空間を整備し、作品をその空間の中に展示することより、失われつつある日本文化の美を再認識するのにふさわしい美術館とする。
(2)美術文化交流の場としての美術館
県民と芸術家の美術文化交流の場として、また、富山県と国内外の地域との交流の場として活用することができる美術館とする。
(3)自然と一体化した和風の美術館
静かな自然に囲まれた環境のもと、県民をはじめ、国内外の人がくつろぎとやすらぎを得られ、日本文化の精髄を感じ取ることができる和風の美術館とする。
(4)県民に愛され親しまれる美術館
県民がいつでも、積極的に利用し、鑑賞できる場とし、県民の自発的な文化活動にインパクトを与えることにより、県民の生活や文化の向上を図る美術館とする。
(5)日本文化の特質を世界に発信する美術館
屏風、襖絵、軸、巻物など長い伝統の中で育まれてきた日本文化の美を有する作品の展示・調査研究活動を行うことにより、日本文化の特質を国内外に広く発信し、美術文化交流のネットワーク化を図る、世界に開かれた美術館とする。(富山県水墨美術館HPから転載)
金森
妻方の墓は、八ヶ山の長岡御廟にある。義母のお骨を納骨した墓にお彼岸参りした。いずれは墓じまいしたいと思っているお墓だが、しばらくはこのままにして置こうと思っている。墓石には「元治元年」と刻まれている。
「元治元年」は幕末の頃、蛤御門の変があった年であり、西郷吉之助と勝海舟が大阪で会見、高杉晋作が長州藩を脱した年でもある。また、「元治」という年号はこの年(1864年)だけだった。前年が「文久」、次年は「慶応」である。そんな年に建てられた墓らしい。
長岡御廟について簡単に解説しているブログがあった。
初代藩主利次公はこの長岡近くの百塚(ひゃくづか)の地に富山城を築城したいと考えていました。ところが、幕府から許可を得ていたにもかかわらず、財政が厳しいのとここに移転した場合、加賀本藩の領地であった現在の富山城下から近すぎてお互いの街が相殺されることを鑑みて、この地に築城することを諦めました。そのため2代前田正甫(まさとし)公が、父親の無念の意を汲んでこの地に御廟を建立したそうです。この長岡の地にはそんな歴史があるのですね。ちなみに、前田正甫公は江戸城で富山の薬を一躍全国に有名にした殿様で知られています。
越の国随想録 山崎定義①(真国寺と長岡御廟)
http://ameblo.jp/toyama-12345/entry-11781699168.html
金森
富岩運河環水公園のスターバックス隣りの駐車場に車を停める。満車で暫く待つのを覚悟で駐車場に入ったのだが、幸いにも目の前で車が一台出て行った。
環水公園の橋の両脇の塔から富山市内を望むと、冠雪の立山連峰が綺麗だった。正に富山の風景だ。
「富山県
水に親しむ場として旧舟だまりを利用した水辺空間を中心に、両岸には遊歩道や芝生のスロープを配置し、憩いと親水の公園機能を演出し、また泉と滝の広場とあわせて、景観的にも都市のシンボルとなる施設をめざしています。(富岩運河環水公園のHPから転載)
金森
広田くんから「東岩瀬」に寄せてメールを貰った。
ご無沙汰しています。
2/18日付の「東岩瀬」拝見しました。
高校を卒業してから関西に移りもう45年以上も関西に住んでいて
漁港というイメージもあるのですが、
私はまだ現役続行中ですが、
昭和電工: 現在は昭和電工セラミックス(株)
倉敷レーヨン: 昭和電工のすぐ近くに大きな工場がありました。
富山化学は顧客です。
東ソー富山工場:
日本曹達岩瀬工場:
興国人絹パルプ:
今思い出せるのはこれくらいでしょうか。
今冨岩運河はずいぶんきれいに整備されているようですので、
以上、思いつくままにまとまりのない話で申し訳ありません。
広田知紀
魚津の道の駅蜃気楼からナビを頼りに、海沿いの細い道を滑川、水橋と車を進め、岩瀬浜駅に着いた。
岩瀬浜駅はポートラムの終着駅だ。
富山県のホームページでは、東岩瀬を次のように紹介している。
東岩瀬に加賀藩のお蔵が置かれ新川郡一帯の米が集まり、東岩瀬港は大阪への積み出し港として栄えました。さらに江戸時代後期には北海道交易を中心に廻船問屋(北前船主)が成長し、活況を呈するようになりました。
しかし、北前船のにぎわいは明治中期までで、汽船の進出や鉄道の開通により、北前船は衰退していったのでした。(富山県HPから引用)
定かではないが、幕政時代東岩瀬辺りも富山藩ではなく加賀藩だったような気がする。
近くにある富山港展望台の駐車場に車を止めて、東岩瀬の古い町並みを歩いた。
金森
北山鉱泉を出て8号線に出た後、右折して魚津の街に向かって車を走らせ、道の駅蜃気楼で休憩にした。天気も良かったので、富山へは、滑川、岩瀬と海沿いの道を走ろうと考えたからだ。
真っ青な富山湾は綺麗だったが、残念ながら蜃気楼は見えなかった。蜃気楼は、(3月下旬~)4月~5月(~6月上旬)によく見えるようだ。ホタルイカの美味しい季節に重ねっている。
魚津埋没林博物館のHPに蜃気楼について解説が載っていたので転載した。
◯蜃気楼を引き起こす空気層のでき方
上位蜃気楼は、下が冷たく上が暖かい空気層によって引き起こされます。
通常、地表から高度が上がるにつれて気温は下がりますが、上位蜃気楼が起きる空気層ではこの関係が逆転しています。高度と気温の関係が逆転するので、このような空気層を逆転層といいます。実際の観測値などから、魚津で上位蜃気楼が見られるときの逆転層の高さはおおむね10m以下、上下の温度差は1~5℃程度と考えられます。
では、富山湾にどのようにして逆転層ができるのでしょうか。これについてはいろいろな説がありますが、次の2つが代表的なものです。
現在は、後者の説が有力と考えられています。今後の研究によって解明が進められれば、また新たな説が生まれる可能性もあります。いずれにしてもその機構は複雑でいろいろなパターンがあると思われるので、一つの説で蜃気楼のすべてを説明することはできないかもしれません。「謎が残されている方がロマンがある」という意見もあります。
◯蜃気楼の出やすい条件
富山湾で上位蜃気楼の出やすい条件には、次のようにある程度の目安があります。
もちろんこれらに当てはまらない例外もありますが、この条件がそろえば可能性が高いと考えてよいでしょう。
富山湾では、上位蜃気楼は、例年ならば上記の時期の間に10~15回程度発生します。ただし、その中には双眼鏡でようやく識別できる程度のものも多く、実際に肉眼でも蜃気楼を楽しめるのは5回もあるかないかです。
上位蜃気楼の回数はその年によってかなり変動があります。微妙なものを含めトータルで5回ぐらいしか発生しない年もあれば、20回以上発生した年もあります。(過去の記録はこちら)
また、持続時間もその日の条件によりまちまちです。数分で終わってしまうことも多い一方、出たり消えたりしながら半日以上も続くこともまれにあります。