雨の合間に、金沢の街を散歩した。
ひがし茶屋街・主計町茶屋街 金沢散歩 2016年9月22日
金森
雨の合間に、金沢の街を散歩した。
ひがし茶屋街・主計町茶屋街 金沢散歩 2016年9月22日
金森
週末に桜を観に兼六園と金沢城公園を歩いてきた。
桜の兼六園 2016年4月2日
桜の金沢城公園 2016年4月2日
金森
金沢の人は花が好きなんだと思う。
家や店の軒先、塀などに、さりげなく四季折々の花が生けられたり植えられたりしている。花々が季節に合わせて街の表情を変えていく。
そう言えば、兼六園も桜、ツツジ、カキツバタなど季節の花が庭を彩る。何度行っても飽きない理由は、こういういったところにもあるのかも知れない。
金沢の花に興味があったら「金沢と石川県の四季の花」(金沢の総合情報・きまっし金沢)を見てもらえればと思う。
金森
北陸新幹線開業に合わせて「回遊して楽しむ三つの灯」が企画されて、兼六園、金沢城、玉泉院丸庭園がライトアップされている。
そんな中、夜の金沢散歩にバスで出かけた。
近江町市場がある武蔵が辻で降りて、ひがし茶屋街方向に少し歩く。老舗料亭壽屋近くの路地裏の「風和利」に寄った。
昼の金沢散歩ではよくこの辺りを歩く。確か二三年前に提灯が掛けられて「風和利」ができたように思う。以来、気に掛かっていた店だったが一度も入ったことはなかった。
料理を頼みながら、カウンター越しにマスターにいろいろと話を聞いた。片町の日本料理屋で修行した後、ニューヨークで腕を磨いて、3年程前に帰国して、この場所にあった町家を改装して、炭火焼きの居酒屋として店を構えたそうである。
まさに「OLD MEETS NEW」がビッタリの店で、日本料理ではあるがどことなく洋風の香りがする。酒も地酒に加えてワインもある。左斜めに座っていた年配の夫婦とおぼしきカップルのテーブルの上にあるグラスには赤ワインが注がれていた。
風和利で炭火焼きの盛り合わせと造りの盛り合わせを肴に立山を呑んだ。その後、ほろ酔い気分で三つの灯を回遊した。妻と夜の金沢を散歩したのは久しぶり、いや、初めてだったかも知れない。
金森
待ちに待った北陸新幹線が3月14日に開業となった。当日は朝早くからヘリコプターの飛ぶ音が聞こえていた。テレビも朝早くから東京からのキャスターが金沢駅などで開業の様子を中継していた。
金沢市内のホテルも満室で、レンタカーも予約で一杯、増車したが追いつかないという話も耳にしていた。
土日は混雑するだろうから街には近づかないでおこうと思ってはいたが、この目でどうなっているか確かめておこうと思い、金沢駅から武蔵が辻の近江町市場、ひがし茶屋街、長町武家屋敷跡から香林坊、兼六園と歩いてみた。
見るからに観光客というひと達が街を歩いていた。正に、「新幹線が春を連れて、やってきた」といった雰囲気だ。
ところで、来る4日に例会を総曲輪で予定している。そういったこともあって、富山はどうだったろうかと気にかかっていた。そんな折、開業当日14日の総曲輪通りの様子がツイッターに流れていた。
金沢の繁華街との違いに目を疑った。
金森
幕政時代、金沢城にあった玉泉院丸には庭園や城郭建造物が存在していた。その玉泉院丸跡の一部の玉泉院丸庭園が3月7日(土)に開園し、8日(日)に一般公開となった。
以前、この場所には体育館があり、近くの香林坊にある会社などの体育大会なて利用されていたことがある。その後、金沢城の整備に合わせて体育館は取り壊され、長い間遺跡の調査がされていた。
玉泉院丸庭園の整備にあたっては、遺跡調査で埋蔵されている庭園遺構を保存し、絵図等を参考に池や島などを再現している。
また、庭園を回遊できる園路や、庭園の全景を眺められる休憩所(玉泉庵)が建てられた。兼六園とは異なる大名庭園としての風情ある庭となっている。
金森
少し前までは、日本の太平洋側を「表日本」と呼び、日本海側を「裏日本」と呼んでいた。この呼び方は明治時代に学術用語として用いられてからのようだ。ただ、なぜ学術的に太平洋側を「表」と表し、日本海側を「裏」と表すのかは定かではない。想像するに、明治維新に欧米列国が日本に開国を迫ってきたのが太平洋側の港であり、これら港が日本の玄関(表玄関)と考えたからかも知れない。
一方、明治より以前、幕政時代を考えてみると、北前船が全国の物資の流通を担っていた。太平洋側は東海道などの陸路、日本海側は北前船の海路で物資が流通していた。陸路でのモノの運搬は主に商人がモノを背負って運んだ。東海道などの宿場はこれら商人達で賑わっていた。
一方、日本海側は海路を北前船で、陸路よりも色んなモノを大量に早く運ぶことができた。北前船は寄港する港みなとで、その土地の珍しいモノを積み込み、次の寄港地でそれを売る。売った後、その土地の珍しいものを仕入れて、次の寄港地で売りながら、大阪から九州を経て北海道へと航行していた。日本海側の各地に、北前船の寄港地があり、そこでは廻船問屋が栄え、寄港地も繁栄して文化交流も盛んだった。
「表」と言えば、日があたり繁栄している。「裏」と言えば、暗く淀んでいる。といった印象がある。こういたった見方からすると幕政時代は日本海側が表日本といって相応しかったのではないかと思ったりもする。
一方、幕府は北前船に利用する船について、「大きさを制限する」とか「帆の数は一枚」といったように規制していたようだ。幕府以外の者が稼いで勢力を拡大するのが怖かったのだと思う。
教科書などに載っている日本地図を天地を逆さにして見ると、ものの見方も変わってくる。
地図: のとねっと 能登半島北前船ものがたり から引用
角海家(かどみけ)も幕政時代に栄えた廻船問屋だ。角海家は能登輪島門前の黒島地区にあり、幕府の天領地(直轄領)だった。なぜ、米も取れない江戸から遠い辺ぴな地を幕府の直轄領にしたのか。直轄領でありながら、なぜ無税にしたのか。北前船の寄港地である石川能美郡なども天領だった。加賀藩の勢力が増すのを恐れたからだろうと想像できる。
金森
曹洞宗の寺院、山号は諸岳山。能登門前に総持寺祖院(そうじじそいん)がある。
元は諸岳寺(もろおかじ)と呼ばれた行基創建と伝えられる密教系寺院(一説には真言宗)。
1321年(元亨元年)に当時の住持である定賢が霊夢を見て越中国永光寺にいた瑩山紹瑾に寺を譲った。瑩山紹瑾はこれを禅林として改め、総持寺と命名して開山となった。
翌年、瑩山紹瑾は後醍醐天皇よりの勅問10問に答えた褒賞として、同寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の寺額が授けられたとするが、伝説の域を出ないと言われている。
1324年(正中元年)、瑩山紹瑾は「諸岳山十条之亀鏡」を定めて寺制を整えた。その後、寺を継承した峨山韶磧によって整備され、五哲と呼ばれた門人によって5ヶ所の子院が設けられた。曹洞宗の多くの寺院が同寺の系統をひき、本山の地位や諸権利を巡って越前国永平寺と論争を行うこともあったものの、「能登国の大本山」すなわち能山として親しまれた。
(ウィキペディアから引用)
引用した中に「越中国永光寺」とあるが、石川県羽咋市の「永光寺」を指しており能登国が越中国の一部だった頃のことと思われる。(先の記事 越中国の遍歴 を参照に)
1898年(明治31年)4月13日の大火で開山廟所である伝燈院経蔵といくつかの小施設を除いて焼失。1905年(明治38年)再建されたが、1911年(明治44年)に横浜鶴見への移転遷祖された。以降、横浜鶴見の総持寺が大本山となり、能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれるようになった。
平成19年(2007年)能登半島地震で、総持寺祖院も大きな被害を受けたが、震災から7年、平成26年3月に本堂や僧堂の修復が完成し、回廊などの修復が続けられている。
金森
歴代の加賀藩主や多くの文人墨客に愛され、大正ロマンの旗手・竹久夢二も訪れたのが金沢の奥座敷湯涌温泉だ。
湯涌の町並み( さかえやのHPから引用)
竹久夢二は大正6年、笠井彦乃とこの湯涌温泉で至福の日々を過ごしたという。
竹久夢二館(金沢竹久夢二館HPから引用)
湯涌温泉には竹久夢二館がある。大正ロマンを代表する〈夢二式美人画〉のモデルとなった妻・岸たまきの故郷が金沢とのことだ。また、夢二が最愛のひと・笠井彦乃と幸せな時を過ごし、愛息・不二彦の病が癒えた地が、「湯涌」である。こうした事実にもとづいて、金沢市がこの地に竹久夢二館を建てた。
この竹久夢二館の向かいに「日本料理 さかえや」がある。ちなみに、女将は富山八尾の出身とのことである。
雪の中、湯涌の湯に浸かりながら、東京からの友と旧交を温めた。
金森