味噌っかす

次の練習日にはやっと、手旗を教えてもらえると聞いて、今度こそと良夫は心待ちにしていた。

ところが、せっかくのその日に警戒警報が発令されてしまった。警報が出されればすべての行事は中止となってしまう。去年の初空襲の時、警報の発令が後手にまわってしまったのに懲りてか、このところ頻繁に警報が出される。

たいていは空襲警報までには至らず、警戒警報まで解除になるのだったが、そのとばっちりで海洋少年団の訓練はほとんど進まなくなった。相撲大会もやはりお流れになってしまった。

良夫たちが海洋少年団として公式の行事に参加できたのは、山本元帥の国葬だけだった。

連合艦隊司令長官の山本五十六が南方戦線で戦死したと伝えられたのは、良夫が六年生になって間もなくだった。

良夫は以前、山本元帥についての記事を少年雑誌で読んだことがある。元帥が病気のお母さんを見舞いに帰ったとき、茶筒を使って上手にアイスクリームを作り、食べさせました、と言うくだりが妙に良夫の心をひきつけた。

この頃はもうアイスクリームはめったに口に入らなくなっていたからだ。

その頃、中国戦線で戦死した指揮官の事を書いた「壮烈加納部隊長」などの戦記物がいくつも載せられていて、良夫はいつも読んでいたから、同じように山本元帥の戦死も華々しい討ち死にとして受け止め、感動していた。

むしろ良夫にとって衝撃的だったのは、ソロモン海域の海戦で、初めて日本の戦艦が沈められたニュースを聞いた時である。ラジオの報道は確かに「我が方、艦齢外の戦艦二隻、沈没せり」

と伝えた。良夫はさっそく彰に聞いてみた。

「兄ちゃん、艦齢外ってどういうことだろ」

「うん、たしか、建造してから二十年以上経ったということじゃないかな。もう古くなった物だよ」

「ふうん、それじゃ、扶桑とか、山城あたりのことかな。陸奥や長門のことじゃないよね」

「うーん、そうだろうなあ...」

巨大な戦艦が熾烈に撃ち合った末、火炎に包まれて沈んでいく光景を良夫は想像した。それは壮絶であると共に、戦慄すべき事実であった。

十隻の戦艦群は日本海軍の力の象徴であり、良夫たちの憧れの的だった。その二隻を失ったのである。

「まだ新しく造った戦艦だってあるんだよねえ。新聞の写真に出てたのがそうだよねえ」

「ああ、あれな、そうだと思うよ」

公表はされていないが新鋭の戦艦が造られていると言う噂は一般に広く信じられていた。

良夫はそれを頼りに何とか衝撃を和らげ、自分を納得させようとした。

提督山本五十六の死については、みずから陣頭に立って戦い、名誉の戦死を遂げた者として、むしろ爽やかに受け止めていた。

元帥の葬列は軍楽隊を先頭に、荘重な足取りで粛々と進んできた。良夫は制服制帽に身を固め、儀杖を手にして晴れがましい気持ちで沿道に直立していた。

葬列の中ほどに真っ黒な砲車が引かれ、その上に元帥の遺骨が置かれている。その前後を多数の海軍将兵が警衛し、さらに後尾に陸軍の歩兵部隊が付き従っている。

陸兵はいずれも弔意を表す意味で銃を担わず、帯革を肩にかけ、銃口を下に向けていた。かなりの数がゆっくり歩いていくから、通り過ぎるまでがずいぶん長く感じられた。

翌日の新聞によると、随従の歩兵は一個大隊とあった。

解散して帰る途中、明治神宮の参道入口でドングリを炒って売っている屋台があった。アラレを炒る金網のなかにドングリを入れてガラガラ廻している。

ドングリの弾ける音がして、香ばしい匂いが鼻を打つ。

小さい頃、ドングリの中身をほじくって口に入れてみたら、嫌に渋かった憶えがある。

「へえー、ドングリなんて食えるのかな...」

「一袋買ってみようか」

炒ったドングリは意外にうまかった。


あとがき

この小説は一九四二年から五〇年までの間、すなわち戦中戦後のはなしである。今から七十年近くも前の事であるから、若い人たちから見ればほとんど歴史小説と言ってよいかも知れない。しかしだからこそ、あの動乱激変の時代を体験した者の責務として書き残しておくべきだと考え、記憶のうすれないうちにと二十五年ほど前に同人誌「浮標」に連載したものである。言うまでもなく主人公は作者と等身大であるが、多少は脚色されているし、他の人物も同様といえる。それをこのたび一冊にまとめて出すことになった。
声をかけてくださった金森喜正氏に改めて謝意を表したい。

  二〇〇七年 八月
市野倉 三郎


市野倉氏少年期の戦争体験を小説として出版したことがある。アマゾンを始めといて全国の書店で購入できる書籍として出版した。

ただ、現在は書店から返品された若干の在庫は手元にあるものの、販売はしていない。(アマゾンでは中古品がプレミアム価格で販売されているようだ。)

蛇足

先の記事「半世紀ぶりの聴講」に触発されてこの記事を書いた。

実は、市野倉氏は東京大空襲で「学童疎開」されていたことがある。後に教師となって学童を教えておられた。定年後に「学童疎開」のころのことを書き残して置きたいと相談され、上梓のお手伝をした。学童疎開での子どもたちが淡々と描かれている。

金森

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この記事について

このページは、ofoursが2016年5月18日 07:00に書いた記事です。

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