ゴルフに誘われて軽井沢の友人の家に行く途中、妻と松代に立ち寄った。
松代城は、
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城されたといわれています。千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城(かいづじょう)」と呼ばれました。(真田宝物館のHPから引用)
松代は桜が満開だった。加えてNHK大河ドラマ「真田丸」の舞台でもあってか、多くの人で賑わっていた。関西などからの観光バスも多く、さすがにNHKの影響力は大きいと感じた。
松代城跡を出た後、松代の町並みを歩いた。いたるところで桜が咲き誇っていた。松城町はこじんまりとした町だ。象山公園を過ぎ佐久間象山邸跡辺りに小高い山、象山がある。象山の麓に地下壕への入り口があった。無料で見学できる。ヘルメットを借りて地下壕の中に入った。
松代象山地下壕のチラシには次のように記されている。
松代大本営地下壕は、舞鶴山(現気象庁松代地震観測所)を中心として皆神山、象山に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は、十キロメートル余りに及んでいます。
第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和十九年十一月十一目から翌二十年八月十五目の終戦の日まで、およそ九箇月の問に建設されたもので、突貫工事をもって、全工程の約八割が完成しました。
この建設には、当時の金額で一億円とも二億円とも言われる巨費が投じられ、また、労働者として多くの朝鮮や目本の人々が強制的に動員されたと言われています。
なお、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、さまざまな見解があります。
工事は、一目二交替から三交替で進められました。食糧事情が悪く工法も旧式な人海作戦を強いられ、正確な数字はわかりませんが犠牲者も出たと言われています。
戦後は、訪れる人も少なく忘れ去られようとしていましたが、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として、多くの方々にこの存在を知っていただくため、平成元年から壕の一部を公開しています。
そもそも大本営とは、
大本営(だいほんえい)は、日清戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令=大陸命、大本営海軍部命令=大海令)として発令する最高司令部としての機能を持つ。本来「本営」とは総司令官が控える場所(中世の本陣と同義)で、これを更に仰々しい名にしたもの。(ウィキペディアから引用)
であり
太平洋戦争末期の敗色が濃厚になるにつれて、さも戦況が有利であるかのような虚偽の情報が大本営発表として流され続けた。このことから現在では、権力者が自己の都合の良い情報操作をして虚偽の情報を発信することを揶揄した慣用として「大本営」「大本営発表」という表現が用いられることがある。(ウィキペディアから引用)
最近では「美しい日本を取り戻す」と叫ぶ安倍晋三の記者会見を伝えるNHKニュース番組を思い浮かべる。
公開されている地下壕は極一部だった。地下壕を歩いている途中で、松代を案内している多分ボランティアの人が地下壕ついて説明しているところに出くわした。
なぜ、松代に大本営を作ることになったのか、大きくは4つあると考えているとのことだった。
- 本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場(長野飛行場)がある。
- 固い岩盤で頑強な地下壕を作れる。
- 長野県は貧乏な県で労働力が豊か。
- 信州は神州に通じ、品格もある。
その中でも、一番の理由は2.であり、次は3.だったと思っている。ただ、3.の理由は「長野県への疎開者が多いから、その疎開者を労働者として使う」と云うものだった。しかし、疎開するのは子どもと年寄りであり、軍の目論見は外れて労働力にはならなかった。そこで朝鮮の人たちを連れて来て、突貫工事をしたと考えているとのことだった。
戦争になれば、こんなものまで造らないと行けなくなる。ちなみに、これを造らせたのは東条英機のようだ。安倍晋三は東条英機を崇拝してるようでもある。安倍晋三の「日本を取り戻す」の真意は、岸信介、東条英機へと繋がる。
私たちは、安倍晋三が目指す戦前の全体主義の日本を取り戻すのではなく、安倍晋三自民党や公明党から国民主権、立憲主義の日本を取り戻すべきだろう。
金森