妻方の墓は、八ヶ山の長岡御廟にある。義母のお骨を納骨した墓にお彼岸参りした。いずれは墓じまいしたいと思っているお墓だが、しばらくはこのままにして置こうと思っている。墓石には「元治元年」と刻まれている。
「元治元年」は幕末の頃、蛤御門の変があった年であり、西郷吉之助と勝海舟が大阪で会見、高杉晋作が長州藩を脱した年でもある。また、「元治」という年号はこの年(1864年)だけだった。前年が「文久」、次年は「慶応」である。そんな年に建てられた墓らしい。
長岡御廟について簡単に解説しているブログがあった。
初代藩主利次公はこの長岡近くの百塚(ひゃくづか)の地に富山城を築城したいと考えていました。ところが、幕府から許可を得ていたにもかかわらず、財政が厳しいのとここに移転した場合、加賀本藩の領地であった現在の富山城下から近すぎてお互いの街が相殺されることを鑑みて、この地に築城することを諦めました。そのため2代前田正甫(まさとし)公が、父親の無念の意を汲んでこの地に御廟を建立したそうです。この長岡の地にはそんな歴史があるのですね。ちなみに、前田正甫公は江戸城で富山の薬を一躍全国に有名にした殿様で知られています。
越の国随想録 山崎定義①(真国寺と長岡御廟)
http://ameblo.jp/toyama-12345/entry-11781699168.html
金森