原爆と原発。放射能被害

若いころ仕事で広島大学に一ヶ月程出張していたことがある。当時は大学とホテルとの行き来だけで観光などといったことはしなかった。原爆ドームを遠目に見ていただけで、原爆資料館も見学したこともなかった。

先日、一度行きたいと思い、心残りでもあった原爆資料館を見学してきた。

広島に投下された原爆は地上600mのところで爆発し、広島を破壊した。その威力は凄まじかった。原爆資料館には投下された後の街の様子を示す資料が展示されている。どれも悲惨なものである。

原爆投下で、全身焼けだだれ、さまよう人々や、瓦礫の山となった市街地の写真には目を覆いたくなった。

ただ、そういった被害もさることながら、広島の人たちを長きに渡り苦しめ続ける白血病など、放射能による健康被害が深く印象に残った。

原発事故での福島の人たちにも同じような健康被害が襲うのではないかと危惧される。福島原発事故による健康被害は、これから顕著になってくるだろう。原爆の放射能被害のように、これからが本番と言っていい。

「食べて応援」などと呑気なことを言って、放射能を軽んじる政府や安倍晋三自民党や公明党の口車に乗っていては後で後悔することになる。自分の身は自分で守っていくしかないと強く思った次第だ。

原爆資料館には白血病で亡くなった「佐々木禎子」さんのことが展示してあった。同じ内容が次のブログに記されている。一部転載して紹介する。

広島原子爆弾による黒い雨により被爆した2才の少女。10年後、急性リンパ性白血病で12年の短い生涯を閉じた

http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/be816448ce07c1c35a73f12370254419

http://friendly756.blog111.fc2.com/blog-entry-129.html より(引用開始)
原爆・原発 2011.08.07

『佐々木禎子物語』
1945年8月6日
2歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、
爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により被爆した。

同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、
禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。

1954年8月の検査では異常なかった。
また小学6年生の秋の運動会ではチームを1位に導き
その日付は1954年10月25日と記録されており、
偶然にも自身の命日となるちょうど1年前であった。
しかし、
11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、
1955年1月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。

病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べたところ、
白血病であることが判明。

長くても1年の命と診断され、
広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院。

千羽鶴を1000羽折ると願いが叶うと聞き、折り始める。
当時、折り紙は高価だったので、薬包紙を使った。
小さな折り紙は、針を使って丁寧に折った。
しかし、
1000羽折ったものの病気が回復することはなく、
1955年10月25日に亜急性リンパ性白血病で死亡。


原爆は地上600mで爆発 原爆資料館 広島

水をください 原爆資料館 広島

生死の境をさまよう 原爆資料館 広島

黒い雨 原爆資料館 広島


金森

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この記事について

このページは、ofoursが2015年12月14日 07:00に書いた記事です。

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