信仰に極めて厚く徳行に富んでいる人を真宗門徒では妙好人と言う。だが、学問に秀でて教理を論ずるような人ではない。真宗の教えを体得し、それに生きた個性的な人のことを言う。妙好人たちの中でも南北朝時代の越中国上平村西赤尾の道宗は、信条の徹底さと行状の厳しさで知られ、今日に至るまで真宗門徒から尊敬をもって慕われている。この道宗をモデルにして岩倉政治が昭和19年に「行者道宗」を書き、昭和22年に加筆して書き改めた。
「赤尾の道宗は、生涯を風変わりな行者でとほした男である。彼のことについては越中に伝説が残っている以外、あまり知る人はいない。ただ蓮如の「一代記聞書」といふものに三ケ所ほど「道宗」のことがみえ、それから拾塵記といふ文章にちょっと記されているぐらいである」。
これが「行者道宗」の書き出しである。前・後編に分かれた中編小説で、前編では岩倉自らが五箇山の道宗開祖の行徳寺を訪れ、そこで行者となるまでの道宗の苦悩と葛藤の姿を、後編では師の蓮如との交流を軸として道宗関連の挿話を加え、彼の信仰の心得というべき「道宗心得二十一ケ条」を記載して道宗の信仰を描いている。
挿話のほとんどは道宗の伝説で次のようなものである。道宗は武士の子で早い時期に両親を亡くした。親恋しさに筑紫の羅漢寺参詣途中の福井で、京へ行くようにとの夢のお告げがあり、それが機縁で蓮如の弟子になった。蓮如への傾倒が甚だしく、年に二・三度は五箇山から京の蓮如を尋ね、蓮如が井波の瑞泉寺逗留の折りには毎朝深雪の山奥から聴講に訪れた。寝る時には48本の割木を並べた上に身を横たえ、旅先では蕎麦ガラの上で横になったなどの奇行の数々である。
だが、伝説のままではなく、脚色や創作したものもある。それらは仏教学者・岩見護の「赤尾の道宗」(昭和31年)と読み比べれば一目瞭然だが、むしろそこに岩倉の主張が込められている。創作したものに、道宗が南朝方の武士の出で彼の元へ南朝の勤皇武士が訪ねてきて議論する個所がある。この個所は昭和19年版と22年版とでは大きく異なっている。
勤皇武士は国事に奔走しない道宗を仏教に逃避したと責める。それに対し、国事よりも弱者の庶民と共に仏に仕えることが大事と道宗は反発する。だが、19年版では最後に勤皇武士の私心のない天朝への志を理解して和解する。
しかし、22年版では武士の志自体が私心だとし、詔(みことのり)を吹聴する者が国史を曇らし、国民を困苦にすると非難する。22年版の〈まえがき〉で「あの当時の軍と結び付いた右翼国粋主義の思い上がった横行にはがまんのならぬものがあった」と岩倉が述べているので、おそらく22年版で右翼を勤皇武士に擬(なぞら)えたのであろう。
思想面で検挙された経験を持つ岩倉にとって戦時下の19年版では抑えざるを得なかったことを22年版で吐き出したに違いない。
岩倉政治は明治36年東砺波郡高瀬村(現南砺市高瀬)生まれ。大谷大学哲学科で仏教を学ぶ一方、唯物論哲学に傾倒し、思想弾圧で二度検挙された。「稲熱病」(昭和19年)で芥川賞候補。他に「村長日記」(農民文学有馬賞)「螺(たにし)のうた」など多数の著作がある。平成12年に死去。享年97。
禅の大家・鈴木大拙の「日本的霊性」(昭和19年)では妙好人として道宗と才市の二人を取り上げ、道宗は岩倉の紹介で知り得たとしている。鈴木と岩倉の親交の深さと鈴木の岩倉への信頼がよく分かる。「行者道宗」は岩倉が作家として油が乗りきった頃に書いた彼の伝記小説の力作である。
「行者道宗」岩倉政治((昭19年増進堂刊・22年百華苑刊)
「行者道宗」宗教作品集 岩倉政治(昭和54年法蔵館刊)
「赤尾の道宗」石見護 (昭和31年永田文昌堂刊)
「日本之霊性」鈴木大拙(昭和19年大東出版社)
行徳寺・越中五箇山
立野幸雄