最近、城ブームで多くの愛好家が全国の城を巡り歩いている。戦国時代に城と呼ばれるものは狭義で3000余りあったが、元和元年(1615)の一国一城令で城郭が約170に減り、明治6年(1873)の廃城令で更にその3分の2が破却されたという。だが、それでも全国には多くの城があり、その中で富山城はどのような評価を得ているのかと疑問がわく。そんな疑問に歴史小説家の大御所・海音寺潮五郎が「日本名城伝」で答えてくれた。彼は全国から名城として12の城を選び、関連ある物語とともに紹介したが、その中に富山城がある。
「日本名城伝」は元々「別冊週刊サンケイ」で海音寺が「日本の城」として月1城のわりで昭和35年1月号から12月号までに発表したものを翌36年に刊行(新潮社)したものである。取り上げられた城は、熊本城、高知城、姫路城、大阪城、岐阜城、名古屋城、小田原城、江戸城、会津若松城、仙台城、五稜郭で、どの城も日本史上に燦然(さんぜん)と輝く名城でそれらと肩を並べて富山城があるのは県人として嬉しく誇らしい気持ちに満たされる。
海音寺は明治34年鹿児島県生まれ。国学院大卒。昭和4年「うたかた草紙」が「サンデー毎日」大衆文芸賞に入選。11年「天正女合戦」「武道伝来記」で直木賞。「平将門」「天と地と」など歴史小説の分野で活躍。48年文化功労者。52年芸術院賞。昭和52年死去。享年76。
彼は富山城を越後の長尾(上杉)氏に抗する越中勢や上方政権(織田・豊臣)の重要拠点として位置付けているが、富山城編では上杉家の内紛や後に城主となる佐々成政を中心に描いている。神通川の水を濠に引いて富山城を築いたのは神保(じんぼ)長職(ながもと)(氏春)で江戸期の富山城主は前田氏であるが、むしろ話の中心は佐々成政で彼にまつわる「さらさら越え」「早百合姫・黒百合」伝説などを紹介しながら、歴史の中に人を観る彼の史観で成政の人物像を厳しく批評している。松倉城(魚津)に立て籠った上杉勢に柴田勝家と成政は全員の命を保障に開城を勧め、それに城方が応じると、彼らの隙(すき)に乗じて全員を殺してしまう。このような不信義はこの時代に珍しくないとしながらも彼は「大成する人物はこんな時代でもこんなことはしていない。こういう小ずるさ、こういう残酷さ、これが勝家、成政の器量の小さいところで秀吉に功をさらわれたところといえよう。どんな時代でも人は不信義な人間や不誠実な人間をきらうのである」と言っている。また、海音寺は、富山城は大軍に包囲された時、八田瀬の堰(せき)と鼬(いたち)川とを締め切って人工洪水をおこし、城下を水没させて城を浮城にするように成政が設計したのだとも言っている。真偽のほどは定かではないが面白い見方である。彼が富山城に興味を抱いたのは「日本の城」連載と同年に「天と地と」(上杉謙信の生涯を描く)の連載を「週刊朝日」に始めたからであろう。越後上杉氏から見た越中の反抗拠点の城への関心が募ったに違いない。ちなみにこの連載は2年間も続き、本県を舞台にした箇所も多数ある。謙信の父為景の戦死に関わる栴檀野(砺波)や度重なる越中侵攻で神保・椎名氏、一向一揆衆、信長家臣団と戦った松倉城(魚津)などの越中での越後勢の戦いぶりが華々しく描かれている。富山城自体の構造等は「富山城探訪」(北日本新聞社新書)が分かり易いが、海音寺の「日本名城伝」の「富山城」と「天と地と」とで郷土の戦国時代後期の様相に思いを馳せるのも楽しいだろう。
立野幸雄