松本清張は北陸の海にひどくミスティリアスな印象を抱いているらしい。「ゼロの焦点」(昭和34年)では、暗い過去を背負った男女を能登のヤセの断崖から日本海に飛び込ませた。また、波静かな内湾の新湊では男女二人を車もろともに富山湾へと突入させ、男を死に追いやった。「十月の初めであった。?越中と信濃とを分ける立山連峰のいちばん高い山頂に新しい雪がひろがっているのをT市から見ることができた。T市は県庁の所在地である」と書き出す、富山を舞台にした「疑惑」(昭和57年)である。また、清張は悪女を巧みに描き、悪賢い女が作品中で暗躍することが多い。「ゼロの焦点」「疑惑」でも存在感のある悪女が描かれている。「疑惑」では、ヤクザと強い繋がりを持ち、金のために男を手玉に取る鬼塚球磨(くま)子という〈したたかな悪女〉が登場する。他に富山ゆかりの悪女として「けものみち」(昭和38年)の伏木出身の民子がいる。彼女は病身の夫を焼き殺し、政財界の大物に取り入り、利を貪ろうとする。だが、「疑惑」の鬼塚球磨(くま)子の悪女ぶりは際立っている。
では、推理小説を読むのに興ざめしない程度に「疑惑」のストーリーを紹介する。
夏の夜、T市の港の岸壁から車が海中に転落した。乗っていたのは資産家の59歳の男と妻の元ホステスの球磨(くま)子34歳で、彼女だけが車から脱出して助かった。彼女は夫の死によって保険金3億円を手にするが、そのことで殺人の容疑が生じ、地元紙は、彼女の前科を含めて彼女のことを〈希代の悪女・鬼クマ〉と面白おかしく書き立てて非難する。その先頭に立っていたのが新聞記者の秋谷だった。だが、その騒ぎの中で国選弁護人の佐原は球磨子の疑いを次々に晴らしていく。それにつれ、非難報道をしていた秋谷は追いつめられて焦り、神経に異状をきたす。そのあげく、佐原が事件の真相を解明した時、秋谷は思いがけない行動に出る......。
この作品は昭和57年「オール讀物」2月号に当初「昇る足音」の題名で発表された。昇る足音とは作品の最後の場面で佐原法律事務所へと階段を昇る時の足音のことである。それは真相を解明した佐原に危害を加えようと階段を上っているのである。「疑惑」は事件そのものの謎解きの面白さよりも、事件に関わった人々の心と行動に焦点を置いて社会に問題を提起している。その問題とは、現在でも度々取り上げられる無責任なマスコミ報道のことで、それを清張はこの作品で痛烈に批判している。また、この作品は昭和49年大分県別府市で実際に起きた3億円保険金殺人事件をモデルにしている。その時の事件では、犯人の(虎美)が高額の保険金をかけた彼の妻子3人を水死させて3億円の保険金を取ろうとして逮捕されたが、清張は虎美の「虎」を「球磨(くま)(熊)」に、男を女に換えて意表を突く結末に仕立てている。いかにも悪女を描くのを得意とする清張の脚色である。
松本清張は明治42年北九州市小倉生まれ。給仕、印刷工、新聞社員などを経て、41歳で懸賞小説に応募。入選した「西郷札」が直木賞候補となり、「或る「小倉日記」伝」(昭和28年)で芥川賞受賞。「点と線」(昭和33年)は推理小説界に"社会派"の新風を生んだ。平成4年に死去。享年82歳。「波の塔」「けものみち」では富山の地名が出てくるが、短篇「ひとりの武将」は佐々成政が主人公で富山を舞台にしている。平成21年は清張生誕百年に当たり、様々な催し物が行われているが、この機に清張の作品を読むのも一興であろう。
立野 幸雄