静かな町 にじむ人情
おわらが終わった後、街は虚(うつ)ろな気怠(けだる)さに覆われる。風が人影のない坂道を吹き抜け、軒先の風鈴の音以外、町はひっそりと静まりかえる。踊り手達は次の風の盆まで深い眠りに陥ったのだろう。やがて秋から冬になり、その冬の日に嘗(かつ)て一人の詩人が八尾を訪れた。
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元華族で歌人の吉井勇が京都から八尾に疎開したのは大戦末期の昭和二十年の冬だった。
雪深い年で「大雪となりし高志路(こしじ)のしづけさは深深として切なかりけれ」「雪はただしんしんとして降るものを何に唇噛(か)み耐へてある身ぞ」と雪国での流浪の身を嘆き、「さむざむと夜半(よわ)の寝酒を飲み居れば炬燵(こたつ)の火さへいつか消えたる」「あはれなる流離のわれや欠椀(けつわん)のにごり酒にも舌鼓(したつづみ)打つ」と六十歳過ぎての仮寓(かぐう)の悲しさを酒で託(かこ)った。
八尾での疎開は八カ月余りだったが、あちこちに歌碑が建てられ、街々には今なお吉井の気配(けはい)がする。歌集「寒行」「流離抄」(ともに昭和二十一年)に吉井の八尾での息遣いがうかがわれる。
八尾角間の八幡社のコブシの老樹の元で句会が開かれ、それが縁で俳誌「辛夷(こぶし)」が大正十三年に創刊されてから通巻千号以上になる。俳誌の老舗で、翌十四年から昭和六年まで八尾で編集され、後に富山市の前田普羅に移った。それまで八尾はアララギ派俳句の越中の拠点で、八尾の多くの人々が俳句にいそしんだ。
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時間を江戸期まで遡(さかのぼ)る。文化十年、凶作と塩野(現富山市大沢野町地区)開発の不満から富山藩最大の農民一揆が起こり、一揆の群れは八尾へと押し寄せた。新田次郎の「槍ケ岳開山」(昭和四十三年)はこの一揆の場面から始まる。八尾の米屋の番頭が、その騒動の最中(さなか)に誤って妻をやりで突き殺し、悔いた男は出家して妻の供養のために笠ケ岳、槍ケ岳への祈りの道を切り開く。播隆上人の一代記である。
だが、伝記ではない。新田は実際のモデルを主人公にしながらも、小説では不撓(ふとう)不屈の精神で人生を切り開いた彼好みの人物を描く。実際の人物を骨格として自分好みの人物像を肉付ける。播隆も新田の思い描いた播隆像で、実物とは異なると眉を顰(ひそ)める必要もないだろう。
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西条八十の詩の一節「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね。ええ、夏碓井から霧積(きりづみ)へ行くみちで渓谷へ落としたあの麦稈(むぎわら)帽子ですよ」を思い出すつどに森村誠一の「人間の証明」(昭和五十一年)が思い浮かぶ。
この詩から東京での殺人の手がかりを追って八尾を訪れた刑事がこの地で解決のめどをつける。華やかな祭(まつり)の裏の人生の哀歓と八尾の純朴な人情は今後も名作を生み続けるだろう。
越中八尾観光会館前に建てられた吉井勇の歌碑=富山市八尾町上新町で
立野幸雄