金沢の町には網の目のように用水が通っている。金沢は「用水のまち」とも言われている。
金沢の町を挟んで東は浅野川、西は犀川といった大きな川が流れている。しかし町は小立野丘陵地に立地しており小川などは少ない土地柄である。そのため金沢の町は火事などにはめっぽう弱かった。慶長7年(1602)には落雷で天守閣が焼失し、元和6年(1620)には金沢城が焼失した。それから10年後の寛永8年(1631)に金沢町の火災により金沢城が焼失。
その翌年、寛永9年(1632)に辰巳用水が完成して金沢城に水が引かれた。しかしその後も大火に見舞われる。宝暦9年(1759)には金沢城下の大火で金沢城が全焼した。文化5年(1808)には二ノ丸御殿が全焼している。
ちなみに、金沢城の天守閣は慶長7年(1602)の落雷で焼失して以来、再建されていない。
このように金沢の町は地形上火事に弱いということもあり、火事への備えからも城下町に用水を網の目のように張り巡らしたのではないだろうか。
長町武家屋敷跡は鞍月用水と大野庄用水に挟まれた位置にある。下の写真は数日前に撮った長町武家屋敷跡の脇を流れる大野庄用水。その下は金沢市が建てた用水の石柱を四年前に巡ったときに撮影した用水の写真を動画にした。
金森