『洛北八瀬奇譚』(六)

 それからが針の筵に座っているようなものでした。毎日がハラハラドキドキの連続でした。ですが、一週間経ち、二週間経ち、一ヵ月経っても洋子からは何の連絡もありません。そして、二ヵ月が経ちました。やはり連絡がありませんでした。その頃には洋子も忘れたのだろうと先ずは安心しておりました。それに洋子ばかりに関わっておれない不祥事が学校で起こりました。二年の女子生徒が問題を起こしたのです。それもよりによって援助交際で警察に補導されたのです。援助交際と言っても売春と変わらないのですが、未成年ですので自らが遊ぶ金欲しさに体を売っても法律的には被害者で、それによって学校でもその子を公然と厳罰に処せれなく、その後の学校での生活指導が微妙なものになります。私も長年の教員経験でその微妙さはよく分かっていますし、騒ぎが大きくなれば学校の名前にも傷がつきます。それに生徒の生活指導の総括責任者が教頭ですから私自身の落度にも繋がりますので、できるだけ荒立てず穏便にすまそうと思い、問題生徒の前に立ちました。校長の代わりに問題生徒を叱責・指導するのも教頭の仕事の一つです。
 指導室でその生徒と向かい合うと、どうしてこんな子がと思うほどの、まだ稚さ残る可愛い顔立ちの女子高生でした。私は穏やかにその子に話しました。こんな事をしていたら将来どうなるかとか、高校生の男女交際の在り方だとか、愛や性のことについて優しく話しました。話しているうちにその子の表情が気にかかりました。最初は殊勝に私の話を聞いていましたが、性に関わる話をしだした頃から、その子の口元に薄ら笑いが浮かび、その少し開いた唇が濡れて赤くヌメヌメと光っているのです。そして、時たま私を上目使いで見る目が少女の目ではなく、男に擦れた女のような目なのです。生徒が先生を見る時の目ではなく、商売女が客の男の品定めをする時のような目なのです。一見、可憐な女子高生のようでありながら、制服の下の体は何人もの男を知っいるに違いありません。その時、私はあることに気が付きました。その生徒は誰かに似ているのです。それもよく知っている誰かにです。そしてようやく思い当りました。それは二十年前の洋子です。二ヵ月前から私を悩ませ続けてきたあの洋子に似ているのです。
 それに気付いてから私の口調が変わりました。怒りが込み上げてきたのです。私は容赦なく目の前の女の子を責め立てました。罵詈雑言で怒鳴りつけました。援助交際の高校生を叱っているのではなく、その生徒に重なった淫らで身勝手な洋子に怒りをぶつけていたのです。生徒は机に顔を伏せ、身を震わせて泣いていました。その背に更に汚い言葉を浴びせかけ、手厳しく叱責して女の淫らさを誹りました。そんな私の罵声と異常な興奮に驚いたのでしょうか、隣室から生徒指導係の教員が駆け込んできて私を宥めました。もしその教員が来なければ、私はその生徒を殴っていたでしょう。生徒は泣きじゃくりながら部屋の外へと連れ出されました。そして、部屋から出ようとした時、その生徒は涙を堪えて私を睨み付けました。その目には恨みが籠もっていました。そして、その目を見て私はふと土井の目を思い出しました。背筋がブルブルと震えました。二度と思い出したくない目でした。
 しばらくして幾分気持ちが静まってきました。その時には悔いが胸を占めていました。体を売っていたとはいえ、年若い女の子に余りにも酷いことを言い過ぎました。未成年者に対して何の配慮もない叱責でした。そして、その夜、その女の子はマンションの十二階の自分の部屋から発作的に飛び降りて死にました。学校で強く叱られたのがよほどショックのようでした。
 何ということでしょうか、洋子に囚われて私はまた一人の生徒を死なせてしまいました。忘れかけていた土井のあの目付きがまざまざと蘇ってきました。悔やんでも悔やみ切れるものではありません。私はその事で退職を覚悟いたしました。ですが、生徒の親が娘の援助交際を隠したかったのと、県の教育委員会が報道関係を極力抑えたので、生徒の自殺は大げさに報道されることもなく、動機も曖昧なままで処理されました。一難は去ったといえ、生徒を自殺に追いやった原因を一番よく知っているのは私自身です。私の胸は後悔で張り裂けそうでした。土井の自殺で受けた心の傷はとっくに治ったと自分では思っていましたが、治っているように見えたのは表面だけで深部はまだ傷付き、化膿して膿が溜まっていました。そして、その膿が再び疼きだしたのです。
 その日以来、胸の奥の膿の疼きが私を苛みはじめました。私はその疼きを忘れる為に酒を飲むようになりました。京都を去ってから滅多に飲まなかった酒を毎日浴びるように飲むようになりました。そんなある日のことです。隣市の山あいの温泉で懇談会を兼ねた地区の教頭会がありました。その夜の宴会でも浴びるように酒を飲み、まだ飲み足らなく宿の外の居酒屋で一人で飲んでいました。その時、私に声を掛けた者がいるのです。酩酊した目で声の主を確かめると、先ほどの宴会場にいた旅館の仲居でした。色白でぽっちゃりとした男好きのするような中年の女でした。今は崩れていますが若い時はさぞや綺麗だったろうと思わせる女でした。宴会場で顔を見た時から、どこかで会ったように思っていたのですが、はっきりと思い出せなくて気になってはいました。その仲居から声を掛けられ、意気投合してますます杯を重ねました。そして、その仲居に誘われるままに旅館に帰り、仲居の用意した部屋の寝床に入りました。その頃にはすっかり酔いがまわり、何が何だか分からなくなっていました。ただ断片的に、女の白い乳房とか、裸の女の上に覆いかぶさり、喚ぎながら腰を動かしていたことなどを覚えていますが、細かいことは何も覚えていません。朝になって目を覚ますと部屋の中で一人で寝ていました。ですが、前の晩に確かに女と関係したようで、酒の上での大失態だと悔やみながら慌てて旅館を出ました。旅館から出る前に昨晩の仲居を探したのですが、どこへ行ったものやら姿が見えず、また、その温泉場は男女の風紀の乱れた所として評判でしたので、その仲居もその類の女だと思い、宿から逃げるようにして家に帰りました。
 それから二日後のことです。学校へ電話が掛かってきました。その声を聞いて、それがあの時の仲居だと分かると、体が凍て付き、固まりました。厭なことが起こりそうな気がしました。電話口で仲居はもう一度あの旅館で会いたいと言うのです。会わなかったらあの夜の事を教育委員会や学校長に告げるとも言うのです。また、その種のゴシップ記事を好んで扱う週刊誌に投稿するとも言いました。脅しです。仕方がありません。私は週末にあの旅館へ行くと約束し、電話をきりました。悪い女に引っ掛かったと思いました。先ず金のことが頭に浮かびました。そして、週末に、用意できる限りの金を集めて温泉宿へと出向きました。
 旅館の部屋に入り、一人座りながら口止め料をあの女にどのように話し出そうかと考えていました。すると、襖がスッーと開いて目の前に艶やかな和服の女が現われました。臙脂紫に花を散らした着物の女が芳しい匂いとともに入ってきたのです。髪は夜会風に巻き上げ、化粧した顔に薄く紅がさしてありました。思わず生唾を呑み込むほどの妖艶な美しさに包まれました。私はしばらくは茫然と女を見つめていました。女は私が見惚れているのを充分に意識して私の傍らに座り、思わせ振りに口を開きました。
「あの晩はずいぶん酔ってらしたわね…」
 その時、ようやく気付きました。美しく装っていますが、その女はあの時の仲居だったのです。私はこの女と関係したのかと思うと妙な気になってきました。ですが、気を取り直して用件を済まそうと尋ねました。
「あの、金なら、ここに、これだけしかないのだが、これだけでは……」
 恐る恐る言うと、女は口元に艶かしい笑いを浮べて私に寄り添うと、媚を浮べた目で私を見つめて言葉を継ぎました。
「先生、まだ気が付かないの。私よ。久しぶりに先生に抱かれたわ。やはり先生に抱かれていた時が一番よかった…」
 驚きました。幾千本もの針が心臓に一時に突き刺さったような気がいたしました。ようやく誰だか分かりました。その女は洋子でした。
「よかったわ。あの時に…」
 洋子は思いに耽りだしたようでした。私は洋子に『違うんだ。おまえは思い違いをしている。俺はおまえを高校生の時には抱いていないんだ。勝手に思い違いされては困る』と言いたかったのですが、その言葉を呑み込んでしまいました。なぜなら『抱いていない』と言っても、つい先日に酒の上とはいえ洋子を『抱いて』いるからです。抱いた事実があるからには、いくら昔の事は身に覚えがないと言っても、洋子が私に中学の時にレイプされ、その後も高校で体の関係を続けてきたと言い張れば、先日に体の関係ができた以上、それを強く否定できる自信がなくなったからです。その時です。洋子が目に妖しい光を浮べて私を誘ったのです。
「ねぇ、先生。もう一度私を抱いて。酒抜きで今度は真剣に私を抱いて、ねぇ、お願い」
 そう言うと洋子は私の手を引いて、隣の部屋の戸を開けました。そこには既に寝床が敷いてありました。
「さあ、先生、早く。あの時のように…」
 洋子は私を部屋に誘い入れると、帯を解きはじめました。その帯を解く音が私の欲情に火を点けました。真紅の長襦袢の胸元を開き、裾を乱して洋子は寝床に横たわりました。私は我慢できなくなり、教職であるのも忘れ、洋子の体に貪りつきました。手と口の中の豊満な肉の感触がいっそう私を狂い立たせました。未練として溜りに溜まった想いを吐き出すかのように爛熟した中年女の体にのめり込みました。熟した洋子の体を頭の中では高校生の洋子の体と見立てて責め苛みました。洋子は狂おしいほどに悶え、喘ぎ、その悶えと喘ぎの中で私も果てました。
 どれほど時間が経ったでしょう。私の横で寝ていた洋子が身を起こし、体を合わせ後の女の馴々しい口調で私に話し掛けてきました。
「よかったわ。最高だったわ。先生、喉が乾かない。水、飲まして上げるから」と言って、枕元の水差しの水を口移しで私の口に注ぎ込みました。
その時です。水と一緒に何か小さな固形のような物が喉を通っていきました。
「うえっ、何だ。何を飲ませたんだ…」
 私は上体を起こして洋子に問い詰めました。ですが、洋子は口を閉ざしたまま妖しげな笑いを浮べて私を見つめているのです。私はそれを吐き出そうとしましたが、それもかなわず、苦しさのあまり喉をかきむしりました。と、洋子は急に私に抱きついてきて、口を開きました。
「もう思い残すことはないわ。最初に抱かれた先生に最後に抱かれて死ぬの。もうこの世に未練はないわ。男なんか、もういや。先生に抱かれた高校の時が一番よかった。もう一度あの頃に戻りたい…」
 私は恐怖に囚われました。洋子を振り払い、再度吐き出そうとしました。
ですが、洋子にきつく抱き締められて身動きがとれません。
「先生、一緒に行きましょう」と言うと、洋子は掌に握り締めていた物を飲み込みました。
《この気違い女め、なんてことをするのだ…》
 洋子は薄ら笑いまで浮べ、女とは思えぬほどの馬鹿力で私を抱き締めました。
《なんて奴だ。なんで俺がこの女と死なねばならないのだ。後一歩で校長だというのに。それに女房や子供は…。とにかく逃げださねば、吐かなければ…》
 私は最後の力を振り絞り、洋子を突き飛ばしました。その時、胃の腑が焼き爛れ、灼熱の激痛が喉に込み上げてきました。そして、目前が真っ赤に染まり、忽ちに闇になると、辺りがシーンと静まりかえりました。その暗闇の静寂の中に声が響きました。
「先生、さあ行きましょう」
 私は茫然とその声を聞いていました。
         ※
 焦茶のネクタイをした眼鏡の男はふっと溜め息を漏らし、その後は口を噤んで、虚ろな目を膝の前の畳に落した。
「ありがとうございました。詳しくお話くださいましてお疲れになったでしょう。悔いはいくら語っても軽くはならないもの、まして誰へ恨みをぶつけてよいのか分からぬ時はなおさら恨みが募るものでございます。先ずは気を静めてくださいませ」
 小野老人は男を宥め、聞き入る客に向かって話しだした。
「皆様もお疲れになられたでしょう。おやおや部屋の中もすっかり暗くなりました。明かりを点けることにいたしましょう。それでは次の話に入ります前にしばらく休憩を取ることにいたします。部屋の後にお茶やお酒を用意いたしました。ご自由にお召し上がりください。それでは十五分後に…」
 小野老人は立ち上がると、ぼんやりと座っている男を促して隣の部屋へと連れ出した。


作者の言 
 本業の方が忙しくなりましたので、連載はしばらく休ませてもらいます。

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この記事について

このページは、ofoursが2007年8月20日 09:05に書いた記事です。

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