昨日、横浜の山下公園に係留されていた「北太平洋の女王」と呼ばれた氷川丸が、営業を終了した。
私にとって氷川丸は青春の思い出の一つであり、今年亡くなった父もまた青春を過ごした船である。
「横浜マリンタワーと氷川丸の営業終了のおしらせ」の「氷川丸のおいたち」の中で、氷川丸が、次のように紹介されている。
1941年(昭和16年)、太平洋戦争勃発とともに本船は、日本海軍に徴用され、主として南太平洋海域において、病院船としての使命を果たしました。1945年、終戦を迎えた後も、大勢の同胞を家族の待つ日本へ送り届けるため、復員輸送に従事しました。
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戦前、戦後を通じ北太平洋を238回横断し、延べ25,000人余の乗客を運んだ氷川丸は、1960年(昭和35年)10月、現役生活を引退し、横浜市の「横浜港開港100周年記念事業」の一環として、1961年(昭和36年)生まれ故郷の横浜港・山下公園に係留されました。
父は生前、戦時中は病院船としての氷川丸に乗って戦地を回っていたと話していた。私が横浜で勤めていたとき、父と山下公園の前にあるグランドホテルに泊まったことがある。・・・
戦前、戦後を通じ北太平洋を238回横断し、延べ25,000人余の乗客を運んだ氷川丸は、1960年(昭和35年)10月、現役生活を引退し、横浜市の「横浜港開港100周年記念事業」の一環として、1961年(昭和36年)生まれ故郷の横浜港・山下公園に係留されました。
その時、氷川丸にも行った。懐かしそうにしていたが、黙して多くを語ろうとはしなかった。そんな父の姿が思い浮かぶ。